探険家 yoshiiの探検・冒険の旅のブログ

探険、冒険大好き人間、世界の最長河川中心に探険中! 探険・冒険大好き人間 中でもアンデス・アマゾンに惹かれる。 好きな食べ物はラーメンとカレー 好きな音楽はラテン

世界の最長河川中心に探険中!! 世界の中の辺境や、居住困難地を歩いてみたい!! 夢ですが、「旅するように人生を送りたい」 と願っています。

結局1時間半も迷いに迷って、ようやく滋賀県蒲生郡日野町小野にある鬼室神社(鬼室集斯の墓)に到着した。

イメージ 1

ここに来るのにこれだけ苦労したので、目的地到着の喜びが何倍にも増した。

鬼室集斯はこの旅の中では特別な人である。

朝鮮民族と日本民族は、古い時代からそれぞれの国を離れて異国の地に移り住んで、異国の国のために沢山の方々が働いていた。

 日本民族の方はここでは省略するが、百済が滅んだ時代に日本の国のために働いた方が鬼室集斯である。
 鬼室集斯は日本の古代史上では大変重要な戦いであった白村江の戦いの敗残者で、その後日本に亡命した百済人である。

イメージ 2


 白村江の戦いとは、663年(天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、 倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争のことである。
 戦いの結末は、唐・新羅軍の圧勝に終わり、百済につぎ668年に高句麗を滅ぼした新羅(統一新羅)の時代となっていく。

 この時代の大和の国のリーダーである天智天皇にとっては、この敗戦は大化の改新以来進めてきた改革路線の最大の危機となり、結果的には天智天皇路線は壬申の乱により滅びさり、天武天皇の時代へ継承される。


 白村江の戦いは大敗し、百済復興は成らなかったが、日本は百済人をそのまま見捨てはせず、この戦争後、大勢の百済難民が日本に移住した。

鬼室集斯もその一人である。

イメージ 3
 司馬遼太郎の「韓のくに紀行」の最終章は「近江の鬼室集斯」というタイトルで、朝鮮から日本に亡命して日本の国造りに貢献した鬼室集斯を中心に書かれている。
 亡国となった百済、その万を超える百済人たちが日本に移住して来たが、「韓のくに紀行」によ
れば、一般人は北九州や山陰あたりに住んだのかもしれないが、鬼室集斯のような百済の王族は、天智天皇とその取り巻きが直接世話をし、近江の蒲生野のあたりに住まわせたと記載されている。

イメージ 4

この時、鬼室集斯とともに佐平余自信という王族も一緒に来ており、天智朝廷は彼らを優遇し、鬼室集斯に小錦下の冠位を与えた。

小錦下はのちの従五位下に相当し、当時としては大層な位階だったという。
 天智朝は白村江の戦いに敗れて後、常に唐と新羅から攻撃されるのではないかと怯え続けていたので、 国防施設を玄界灘や瀬戸内海の沿岸に築くとともに、百済難民を東国へ移住させ、都を奈良盆地の飛鳥から琵琶湖南端の近江宮へ移したりした。

また、強力な統一国家を早急に確立するため官僚養成を目的とする大学を作る必要があったので、鬼室集斯は百済人であったが、日本の国家的要請により日本最初の大学の総長となった。

イメージ 5

感動の鬼室神社境内を歩いて行くと、最初にこんな建物があった。

イメージ 6

 近づいてみると、集斯と書いてあった。

 近くに説明看板があったので読んでみた。

 ここは日野町と韓国ウルサン市の姉妹都市交流20周年を記念して整備した交流広場で、中央に位置する建物は休憩所。

この休憩所は鬼室神社の祭神であり姉妹都市交流のきっかけとなった鬼室集斯にちなんで、集斯亭と名付けられた。

曲線で構成された屋根や扇状の垂木、色鮮やかな丹青など韓国の古代様式を模していて、交流のシンボルとなっている。

これから、鬼室神社に入っていく。
 


これから鬼室集斯の墓碑を祀った鬼室神社に向かう。
今回の旅は、日本人の血液のなかの有力な部分が朝鮮半島を南下して大量に滴り落ちてきた痕跡の一部にたどり着くのが最も重要な目的となるので、古代朝鮮との交流の跡である鬼室集斯の墓を見ることは、今回の旅の最大級の楽しみだった。
イメージ 1
 ナビで検索しても鬼室神社は出てこなかったので、その近くの町である日野町にとりあえず向かい、40分ほど走って日野町の街中に到着した。
 日野町周辺は蒲生の里と呼ばれ、蒲生氏が日野城(中野城)の城下町として開発した町である。
蒲生氏が伊勢松坂・会津若松へ移ってからは、近江八幡や五個荘と並んで近江(日野)商人の発祥地として繁栄した。
イメージ 2
この日117()は日野商人関連の旧邸等が閉館していたので、メイン通りをさっと車で通り抜けて、国県道沿いの食堂を探して走った。
イメージ 3
10分ほど走って、この中華食堂に入った。
イメージ 4
 この店で野菜炒め定食を頼んだが、無料でラーメンがつくというので「それお願い」と軽く頼んだのが運の尽きで、ラーメンは単品でも食べ応えの有りそうな普通サイズのものだった。
 結局このラーメンは半分しか食べられず、やはり野菜炒め定食+ラーメンの値段に相応する1080円を払う羽目になった。
イメージ 5
鬼室神社は黄星印の位置あたりにあるが、ナビでは出てこないため、勘に頼って走って行った。
やはりそういう走行が災いして、1時間以上無駄に蒲生の里を走った。
もうこれ以上迷ってもしょうがないということで、日野町役場の観光課に行って地図をもらい、鬼室神社の位置を正確に教えていただいた。
イメージ 6
 それでも、日野町役場から鬼室神社(鬼室集斯の墓)までは、途中で峠道を越えたりトンネルに入ったりしたので、車で20分ほどかかった。
 

紫香楽宮跡から15分ほど走って、甲賀流忍術屋敷に到着した。
イメージ 1
ここは甲賀忍者53家の筆頭格にあたる望月出雲守の屋敷として300年前に建てられた。
外見は普通の屋敷と変わらないが、内部には忍者の住まいにふさわしく、侵入者から身を守る為のどんでん返しや落とし穴などさまざまな仕掛けが施されている。
イメージ 2
 まず、この座敷で20分ほどスライドを見たり職員の話を聞いたりした。
 甲賀忍者が誕生したのは、中世の「鈎(まがり)の陣」が発端である。
足利幕府の命に背く佐々木六角高頼討伐のために、将軍足利義尚自ら大軍を率いて近江に来攻した時、甲賀の土豪(半農半武の有力農民)達が佐々木六角氏に助勢し、夜陰にまぎれ義尚の本陣に迫って火や煙を放つなどさまざまな奇襲攻撃をかけ、その神出鬼没の戦術や高い戦闘能力の印象により、「甲賀忍者」と呼ばれるようになったという。
その後の戦国時代には、各戦国大名を影から支えていった。
説明のあと、女性職員の案内で屋敷内を見て回った。
イメージ 3
ここには忍者服も用意してあり、何人かの女性客は忍者服を着用して説明を聞いていて、彼女達が見ているのは、地下への抜け穴である。
イメージ 4
 抜け穴はこのようになっていて、屋敷の外に出られるようになっている。
イメージ 5
 ここは隠し戸で、戸を開けると隠し梯子があって、いざという時にここから2階に逃げられるようになっている。
イメージ 6
 隠し梯子を上ると、2階はこのようになっていて、ここにも忍者屋敷特有の仕掛けが沢山施されている。
イメージ 7
ここも戸の向こうに1階へ逃げられる階段が設置されていて、敵といつでも戦えるように刀も設置されていた。
イメージ 8
また天井には、黒装束の忍者人形や赤装束の忍者人形が張り付いていて、実際の戦いとなるとこのように身構えて、下を通る敵を襲ったのだろう。
イメージ 9
特に忍者屋敷の主人の部屋には、このしのび窓のような脱出用や護身用のための沢山の仕掛けが作られていて、いろいろと面白かった。
 

↑このページのトップヘ