2013年05月
四川省 黄龍と九寨溝の絶景
中国編26 パンダに会う。最終回
中国はかって、パンダ外交を展開し、それまで疎遠だった国々と友好を深めた。
現在、パンダはペアに付き1億円でレンタルされている。(それも1年間で1億円である。)
中国人の子どもでも、パンダを見ることは滅多に出来ないという。
その宝物のような生き物に会ったのは、北京を出発する日の午前8時半頃。
この時間には、餌を食べるため、パンダが寝床から出ているだろうと、金妙珍は説明し、そのとおり実行した。
幸い北京動物園はまだ入館者がまばら、金妙珍の計画変更は最後の最後まで、ことごとく成功した。
僕らはこれから、宝物に会いに行く。
いました、いました。食事中の宝物(1年間で5千万)発見。
現在日本には3カ所パンダを見物できる施設がある。
高いリース料を払ってまでパンダを借り受け、入園者数を伸ばしている神戸の王子動物園は有名である。
ここにいるパンダの数は凄い。
宝石の塊がごろごろしてるよ。
パンダを中国以外で飼育している国は6カ国しかない。
その中でも日本が一番多く、6頭飼育している。
韓国ではこの高いレンタル料を払えず、1999年にパンダを返還しているとか。
韓国も、韓ドラやコーリアミュージックを日本へ輸出して、21世紀初頭の日韓の友好正常化に寄与した。
パンダを見ていると、ペ・ヨンジュンやチェジュウやソン・イェジンに見えてきた。
東アジアの隣国であり、実力国でもある韓国や中華人民共和国とは、これからも、いろんな意味で日本は上手に付き合っていかなければならない。
そんなことを考えながら、僕のソウルと北京の旅は、無事終了した。
現在、パンダはペアに付き1億円でレンタルされている。(それも1年間で1億円である。)
中国人の子どもでも、パンダを見ることは滅多に出来ないという。
その宝物のような生き物に会ったのは、北京を出発する日の午前8時半頃。
この時間には、餌を食べるため、パンダが寝床から出ているだろうと、金妙珍は説明し、そのとおり実行した。
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幸い北京動物園はまだ入館者がまばら、金妙珍の計画変更は最後の最後まで、ことごとく成功した。
僕らはこれから、宝物に会いに行く。
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いました、いました。食事中の宝物(1年間で5千万)発見。
現在日本には3カ所パンダを見物できる施設がある。
高いリース料を払ってまでパンダを借り受け、入園者数を伸ばしている神戸の王子動物園は有名である。
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ここにいるパンダの数は凄い。
宝石の塊がごろごろしてるよ。
パンダを中国以外で飼育している国は6カ国しかない。
その中でも日本が一番多く、6頭飼育している。
韓国ではこの高いレンタル料を払えず、1999年にパンダを返還しているとか。
韓国も、韓ドラやコーリアミュージックを日本へ輸出して、21世紀初頭の日韓の友好正常化に寄与した。
パンダを見ていると、ペ・ヨンジュンやチェジュウやソン・イェジンに見えてきた。
東アジアの隣国であり、実力国でもある韓国や中華人民共和国とは、これからも、いろんな意味で日本は上手に付き合っていかなければならない。
そんなことを考えながら、僕のソウルと北京の旅は、無事終了した。
台湾紀行その7 あまり知られていない台湾島の歴史
台湾は1895年から1945年まで日本の国だったにもかかわらず、その歴史は日本人には意外に知られてない。
僕らが一般的な常識として知っているのは、蒋介石以後の台湾の歴史である。
中国には『中華民国』(台湾のこと)と『中華人民共和国』(大陸の中国のこと)の二つがあることは、誰でも知っている。何でそうなったかも常識となっている。
明治時代、中国は清という国だったが、孫文の指導による革命が起き、1912年に『中華民国』という国が誕生した。
しかし第二次大戦後、中国内部で、孫文の流れをくむ国民党(蒋介石)と共産党(毛沢東)の争いが表面化し、共産党が国民党を圧倒し、とうとう共産党は、国民党を大陸から台湾に追い出した。
共産党は1949年に『中華人民共和国』の建国を宣言し、このときから、大陸は『中華人民共和国』となった。
しかし、台湾に逃れた国民党政府は、負けを認めず、中国王朝の正統はわれわれであると主張し、「光復大陸(大陸を取り戻すぞ!)」をスローガンに、それからずっと『中華民国』として頑張っている。
蒋介石と妻の宋美麗
台湾は、いまも中華民国(台湾)の憲法上の首都は台北ではなく南京としており、大陸のことを、中華民国共産区としている。
こういう現状を踏まえ、台湾の歴史を調べてみると、やはり僕らは台湾については何も知らなかったとわかってくる。
オランダの植民統治以前の時代、台湾本島はどこの国の版図でもなく、台湾として独立もしていなかった。
台湾本島は近域を航行する船舶の一時的な寄港地、あるいは倭寇の根拠地としての位置づけとなっており、この状態が明代まで続いた。
台湾本島が正式に中国版図に組み入れられたのは、オランダや鄭成功勢力を一掃した清時代になってからである。
オランダの植民地時代や鄭成功の統治時代を調べてみる。
オランダ植民統治時代(1624年 - 1662年)
17世紀初頭に成立したオランダの東インド会社はまず明朝領有下の澎湖諸島を占領した後、1624年に台湾島の大員(現在の台南市周辺)を中心とした地域を制圧して要塞を築いた。
同時期の1626年には、スペイン勢力が台湾島北部の基隆付近に進出し、要塞を築いて島の開発を始めていたが、東インド会社は1642年にスペイン勢力を台湾から追放する事に成功。
鄭氏政権時代(1662年 - 1683年)
1644年、李自成の反乱によって明朝が滅亡し、混乱状況にあった中国に満州族の王朝である清が進出して来た。
「反清復明」を唱えて清朝に抵抗していた鄭成功の軍勢は、清への反攻の拠点を確保する為に台湾のオランダ・東インド会社を攻撃し、1662年に東インド会社を台湾から駆逐する事に成功。
台湾の漢民族政権による統治は、この鄭成功の政権が史上初めてである。
東インド会社を駆逐した鄭成功は台湾を「東都」と改名し、現在の台南市周辺を根拠地としながら台湾島の開発に乗り出すことで、台湾を「反清復明」の拠点にすることを目指したが1662年中に病気で死去した。
彼の息子である鄭経たちが父の跡を継いで台湾の「反清復明」の拠点化を進めたが、反清勢力の撲滅を目指す清朝の攻撃を受けて1683年に降伏し、鄭氏一族による台湾統治は3代 実質21~23年間で終了。
この後、台湾本島は清の版図となるが、清朝の統治範囲は島内全域におよぶことはなかった。
清朝統治時代(1683年 - 1895年)
清朝は鄭氏政権を滅ぼす為に台湾島を攻撃・制圧したのであり、当初は台湾島を領有する事に消極的であった。
しかしながら、朝廷内での協議によって、最終的には軍事上の観点から領有することを決定し、台湾に1府(台湾)3県(台南、高雄、嘉義)を設置した上で福建省の統治下に編入した(台湾道(中国語版)、1684年-1885年)。
ただし清朝は、台湾を「化外(けがい)の地」(「皇帝の支配する領地ではない」、「中華文明に属さない土地」の意)としてさほど重要視していなかった為に統治には永らく消極的であり続け、特に台湾原住民については「化外(けがい)の民」(「皇帝の支配する民ではない」、「中華文明に属さない民」の意)として放置し続けてきた。
清朝編入後、台湾へは対岸に位置する中国大陸の福建省、広東省から相次いで多くの漢民族が移住し、開発地を拡大していった。
現在の台湾に居住する本省系漢民族の言語文化は、これらの地方のそれと大変似通ったものとなっている。
漢民族の大量移住に伴い、台南付近から始まった台湾島の開発のフロンティア前線は約2世紀をかけて徐々に北上し、19世紀に入ると台北付近が本格的に開発されるまでになった。
台湾は主に農業と中国大陸との貿易によって発展していったが、清朝の統治力が弱い台湾への移民には気性の荒い海賊や食いはぐれた貧窮民が多く、更にはマラリア、デング熱などの熱帯病や原住民との葛藤、台風などの水害が激しかった為、台湾では内乱が相次いだ。
また、清朝が台湾自国民定住抑制政策を摂り、漢民族女性の渡航を禁止したため、漢民族男性の伴侶は必然的に台湾原住民女性となり、漢民族と平地に住む原住民との混血が急速に進んだ。
以上が日本統治時代以後と以前の台湾の歴史であるが、日本統治時代の歴史については、また機会を改めて記載する。
僕らが一般的な常識として知っているのは、蒋介石以後の台湾の歴史である。
中国には『中華民国』(台湾のこと)と『中華人民共和国』(大陸の中国のこと)の二つがあることは、誰でも知っている。何でそうなったかも常識となっている。
明治時代、中国は清という国だったが、孫文の指導による革命が起き、1912年に『中華民国』という国が誕生した。
しかし第二次大戦後、中国内部で、孫文の流れをくむ国民党(蒋介石)と共産党(毛沢東)の争いが表面化し、共産党が国民党を圧倒し、とうとう共産党は、国民党を大陸から台湾に追い出した。
共産党は1949年に『中華人民共和国』の建国を宣言し、このときから、大陸は『中華人民共和国』となった。
しかし、台湾に逃れた国民党政府は、負けを認めず、中国王朝の正統はわれわれであると主張し、「光復大陸(大陸を取り戻すぞ!)」をスローガンに、それからずっと『中華民国』として頑張っている。
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蒋介石と妻の宋美麗
台湾は、いまも中華民国(台湾)の憲法上の首都は台北ではなく南京としており、大陸のことを、中華民国共産区としている。
こういう現状を踏まえ、台湾の歴史を調べてみると、やはり僕らは台湾については何も知らなかったとわかってくる。
オランダの植民統治以前の時代、台湾本島はどこの国の版図でもなく、台湾として独立もしていなかった。
台湾本島は近域を航行する船舶の一時的な寄港地、あるいは倭寇の根拠地としての位置づけとなっており、この状態が明代まで続いた。
台湾本島が正式に中国版図に組み入れられたのは、オランダや鄭成功勢力を一掃した清時代になってからである。
オランダの植民地時代や鄭成功の統治時代を調べてみる。
オランダ植民統治時代(1624年 - 1662年)
17世紀初頭に成立したオランダの東インド会社はまず明朝領有下の澎湖諸島を占領した後、1624年に台湾島の大員(現在の台南市周辺)を中心とした地域を制圧して要塞を築いた。
同時期の1626年には、スペイン勢力が台湾島北部の基隆付近に進出し、要塞を築いて島の開発を始めていたが、東インド会社は1642年にスペイン勢力を台湾から追放する事に成功。
鄭氏政権時代(1662年 - 1683年)
1644年、李自成の反乱によって明朝が滅亡し、混乱状況にあった中国に満州族の王朝である清が進出して来た。
「反清復明」を唱えて清朝に抵抗していた鄭成功の軍勢は、清への反攻の拠点を確保する為に台湾のオランダ・東インド会社を攻撃し、1662年に東インド会社を台湾から駆逐する事に成功。
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台湾の漢民族政権による統治は、この鄭成功の政権が史上初めてである。
東インド会社を駆逐した鄭成功は台湾を「東都」と改名し、現在の台南市周辺を根拠地としながら台湾島の開発に乗り出すことで、台湾を「反清復明」の拠点にすることを目指したが1662年中に病気で死去した。
彼の息子である鄭経たちが父の跡を継いで台湾の「反清復明」の拠点化を進めたが、反清勢力の撲滅を目指す清朝の攻撃を受けて1683年に降伏し、鄭氏一族による台湾統治は3代 実質21~23年間で終了。
この後、台湾本島は清の版図となるが、清朝の統治範囲は島内全域におよぶことはなかった。
清朝統治時代(1683年 - 1895年)
清朝は鄭氏政権を滅ぼす為に台湾島を攻撃・制圧したのであり、当初は台湾島を領有する事に消極的であった。
しかしながら、朝廷内での協議によって、最終的には軍事上の観点から領有することを決定し、台湾に1府(台湾)3県(台南、高雄、嘉義)を設置した上で福建省の統治下に編入した(台湾道(中国語版)、1684年-1885年)。
ただし清朝は、台湾を「化外(けがい)の地」(「皇帝の支配する領地ではない」、「中華文明に属さない土地」の意)としてさほど重要視していなかった為に統治には永らく消極的であり続け、特に台湾原住民については「化外(けがい)の民」(「皇帝の支配する民ではない」、「中華文明に属さない民」の意)として放置し続けてきた。
清朝編入後、台湾へは対岸に位置する中国大陸の福建省、広東省から相次いで多くの漢民族が移住し、開発地を拡大していった。
現在の台湾に居住する本省系漢民族の言語文化は、これらの地方のそれと大変似通ったものとなっている。
漢民族の大量移住に伴い、台南付近から始まった台湾島の開発のフロンティア前線は約2世紀をかけて徐々に北上し、19世紀に入ると台北付近が本格的に開発されるまでになった。
台湾は主に農業と中国大陸との貿易によって発展していったが、清朝の統治力が弱い台湾への移民には気性の荒い海賊や食いはぐれた貧窮民が多く、更にはマラリア、デング熱などの熱帯病や原住民との葛藤、台風などの水害が激しかった為、台湾では内乱が相次いだ。
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また、清朝が台湾自国民定住抑制政策を摂り、漢民族女性の渡航を禁止したため、漢民族男性の伴侶は必然的に台湾原住民女性となり、漢民族と平地に住む原住民との混血が急速に進んだ。
以上が日本統治時代以後と以前の台湾の歴史であるが、日本統治時代の歴史については、また機会を改めて記載する。
中国編25 天壇に上がり、そこに入る。
天壇は皇帝が天を祀る場所であるが、北京にはこの他、地の神を祀る地壇、太陽神を祀る日壇、月の神を祀る月壇があり、それぞれ今は公園となって大勢の市民の憩いの場となっている。
紫禁城を囲んで、南に天壇、北に地壇、東に日壇、西に月壇の配置である。
明清の皇帝達は、季節毎の祭儀に、それぞれの神に動物の生け贄(イケニエ)などを捧げ、人々を支配する側の総大将として、中華の繁栄や農作物の豊作を祈念した。
長廊から祈念殿を見上げると、気分が高揚し、神聖な気分になる。
天壇の中心的な建物は、祈念殿と円丘だが、今回は円丘は行かなかった。(少々、心残りではあった。)
祈念殿は、地をかたどった四角い敷地に、天をかたどった円形の建物を置いたもの。
この建物は乾隆帝時代の建築を原型としているが、光緒帝時代(1889年)に消失し、再建されたもの。
明清代の皇帝たちは、立春の日にここで動物達を生け贄として捧げ、天の神に五穀豊穣を願った。
祈念殿の中に入ると、中は吹き抜けで、四季を意味する4本の赤い柱が眼に入る。
4本の柱の外側には12本の柱が立っており、これは12カ月を意味している。
祈念殿は、民衆を支配する皇帝の儀式のために造られた特別の建物であり、民衆とはかけ離れた、むしろ神に近い権力を持った特権的な者が、神の威光を受け民衆を支配するという構図を実体化させた建物でもあった。
その皇帝たちのための建物が、今はいずれも公園となっている。
金妙珍が終始バスの中で、「私達中国人は贅沢を求めているのではない。今の中国人は、生きることを楽しむために生きている。」と言っていた。
それが中国人の現実なのだろう。
ようやく、生活を楽しむことが出来るようになったのだ。
僕は田中角栄ではないが、日本と隣国の大国中国とはやはり友好的な姿勢をこれからも持ち続けて行ってもらいたいと願っている。
中国大陸や朝鮮半島は、島国日本とは良いにしろ悪いにしろ、切っても切れない縁で繋がっている。
胡同で話しを聞いた、ものやさしい考古学者の顔が、祈念殿から故宮を遠望した際に浮かんだ。
それはすぐに、ここで憩うお年寄り達の顔に、重なり、消えて行った。
紫禁城を囲んで、南に天壇、北に地壇、東に日壇、西に月壇の配置である。
明清の皇帝達は、季節毎の祭儀に、それぞれの神に動物の生け贄(イケニエ)などを捧げ、人々を支配する側の総大将として、中華の繁栄や農作物の豊作を祈念した。
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長廊から祈念殿を見上げると、気分が高揚し、神聖な気分になる。
天壇の中心的な建物は、祈念殿と円丘だが、今回は円丘は行かなかった。(少々、心残りではあった。)
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祈念殿は、地をかたどった四角い敷地に、天をかたどった円形の建物を置いたもの。
この建物は乾隆帝時代の建築を原型としているが、光緒帝時代(1889年)に消失し、再建されたもの。
明清代の皇帝たちは、立春の日にここで動物達を生け贄として捧げ、天の神に五穀豊穣を願った。
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祈念殿の中に入ると、中は吹き抜けで、四季を意味する4本の赤い柱が眼に入る。
4本の柱の外側には12本の柱が立っており、これは12カ月を意味している。
祈念殿は、民衆を支配する皇帝の儀式のために造られた特別の建物であり、民衆とはかけ離れた、むしろ神に近い権力を持った特権的な者が、神の威光を受け民衆を支配するという構図を実体化させた建物でもあった。
その皇帝たちのための建物が、今はいずれも公園となっている。
金妙珍が終始バスの中で、「私達中国人は贅沢を求めているのではない。今の中国人は、生きることを楽しむために生きている。」と言っていた。
それが中国人の現実なのだろう。
ようやく、生活を楽しむことが出来るようになったのだ。
僕は田中角栄ではないが、日本と隣国の大国中国とはやはり友好的な姿勢をこれからも持ち続けて行ってもらいたいと願っている。
中国大陸や朝鮮半島は、島国日本とは良いにしろ悪いにしろ、切っても切れない縁で繋がっている。
胡同で話しを聞いた、ものやさしい考古学者の顔が、祈念殿から故宮を遠望した際に浮かんだ。
それはすぐに、ここで憩うお年寄り達の顔に、重なり、消えて行った。