世界の最長河川中心に探険中!探険家よっしいのブログ

探険、冒険大好き人間、世界の最長河川中心に探険中! 探険・冒険大好き人間 中でもアンデス・アマゾンに惹かれる。 好きな食べ物はラーメンとカレー 好きな音楽はラテン

2014年04月

台中に来ている。台湾紀行2日目となっているが、その台中での最初の見学場所は宝覚寺である。

 ここで、台中と宝覚寺を簡単に説明する。

 台中は台湾中部の中心都市で、18世紀初め頃に大量の漢民族が移住し都市を形成した経緯がある。
1884年には台湾省府が台中に置かれたようであるが、間もなく台北に移された。

 宝覚寺は1928年に建立されており、30メートルもある巨大な弥勒大仏像(布袋様)で有名な寺院で、また寺院境内には戦前台湾中部で亡くなった日本人移民や戦没者の遺骨が安置されている。

 それでは最初の見学場所へスタートである。
宿泊した富王大飯店から宝覚寺までの道順を赤い線で示すとこうなる。



 20分まで掛からないで宝覚寺に到着、小雨の中、傘をさしての見学となった。
宝覚寺の門をくぐると大きな建物があり、その中に小さな寺院が収まっている。



 その建物の前で、阪急交通社の委託を受けてこの旅行のガイドを出している台湾の金品旅行社の専属ガイドの王さん(派手な旗を持っているピンクの邪の半袖の人)が、綺麗な日本語で、早速ガイドを開始した。
中の小さな寺院は日本時代からあったもので、その外側の大きな建物は7〜8年前に建てられたものとのこと。

 お寺の中には、宝覚禅寺のご本尊の釈迦像が鎮座している。 
寺院の入口の正面に左右2体の像の石像が置かれているが、象は聖なる平和の象徴だとのこと。



 そして、宝覚寺観光の目玉となるのがこの黄金色に輝く巨大な弥勒大仏像で、弥勒大仏とは七福神の布袋さんのことである。
黄金色のにこやかな大仏の大きさは、高さが約30m、台湾では2番目の大きさだという。王ガイドによれば、この大仏の耳を触ると幸福が訪れ、へそに触ると「へそくり」が増え金持ちになるという。実際にこの巨大な大仏にふれることは出来ず、近くに置いてある小さなレプリカがその代用をするとのこと。

 またこのお寺は日本人と関係のある寺で、戦前、台湾中部で亡くなった一万四千人の日本人移民の遺骨が奉納されているといわれ、境内には日本人墓地もあるとのこと。
ガイドに案内された日本人戦没者の遺骨安置所で、思いがけない名を見かけ、司馬遼太郎の台湾紀行に書かれていた事柄を思い起こすことになった。



 この日本人戦没者の遺骨安置所の前に建てられた慰霊碑「霊安故郷」の左に書かれた李登輝元台湾総統の名が、その思いがけない名であった。

台中の富王大飯店で2日目となった。
 富王大飯店は台湾中部の台中市の中心に位置し、141の客室を持ち、古い歴史を持つ大きな建物で、今はビジネスホテルとして活躍している
二つ星ホテルである。




 5段階評価の下から2番目なので、去年の10月に宿泊した韓国旅行のホテルとは随分設備や接遇が違っていた。
格安ツアーなので、致し方のないところであるが、ただ、このホテルはやたら混み合っていた。

 阪急交通社企画の団体も数団体入っていて、これが台湾旅行で唯一にして最大級ともいえるトラブルを引き起こす原因となったのだが、そのことはもう少しあとで触れたい。




 朝早くから出発するツアーがいると見え、6時半頃にはホテルのロビーには旅行用スーツケースが並んでいた。
朝食は6時半から出来るということで、バイキング式の食事行列に並んだ。



 日程や時差等の関係で、いつもの調子も出ず、適当に並んでいるバイキング料理を選び、空いている席に座って、朝食となった。




 この中では、じゃがいもが美味かったが、あとは惰性で胃の中に流し込んだ。

 実は今年は3月初めから強烈な鼻炎症状に襲われていて、新潟に居るときは仕事に差し支えるので、内科医が出す程度の薬を毎晩寝る前に服用していた。
 その薬は持っては来ていたが、朝の様子で新潟程花粉などが飛散してないようなので、飲まないことにしていた。

 その代わりとして、必要は無いと思ったが念のためこの旅の間中、鼻炎対策用を兼ねて、朝食後にバス旅行用トラベルミンを飲むこととした。

 結果として、不快な気分になる事もなく少々眠かった程度で、台湾を一周するバスの旅は、気分爽快とまではいかなくても快適と言える旅となった。




 僕らのツアーの参加者達も、三々五々食堂に集まり、台湾で最初の食事をとっていた。
窓の外は小雨交じりの天候で、幸先の悪いスタートとなった。

 この天候に輪を掛けたのが、台湾旅行で唯一にして最大級ともいえるトラブルの発生で、どうやら先ほど飲んだトラベルミンの効果が早速現れた結果なのかなと、後になって考えているが、起こったものは仕方がない。

 阪急交通社のツアーが複数入っていることを記したが、その他にも沢山のツアーが入っていて、玄関ロビーは大混雑だった。
僕は午前7時半にはロビーに居て、出発時間までぶらぶらしていた。

 その段階で、僕らのツアーメンバーの顔を漫然としか覚えていなかったのがそもそもの原因なのだが、近くの方に阪急交通社のバッジを見せ、荷物の置き場所を聞いて、何の疑いもなしにそこに置いた。

 その荷物の置き場所のツアーガイド葉さん(男性)率いる非常に元気の良い午前7時40分出発のツアーがバスに乗り込み始めたので、僕も昨日は女のガイドだったのにおかしいなと思いながらも、行列初めの方の流れに乗り、スーツケースを入れ、バスにまで乗ってしまった。




 ここで不幸中の幸いというか、運が良かったことに、ツアーガイド葉さん(男性)が人数点検をしてくれ、一人多いと騒ぎ出し、2回ほど人数確認を始めた。

 誰のことだろうと気にもとめないでいたら、「新潟出発の方、間違って乗っていませんか?」と言った。

 僕は東京出発のツアーに紛れ込んでしまっていたのだ。

 恥かしいのを通り越し、気が動転したまま急いでバスを降りた。
バスからスーツケースを降ろす僕をしかめっ面で睨みつけている運転手とツアーガイド葉さん(男性)の視線を感じながら、一番奥の方に置いてあったスーツケースを何とか取り出し、日本語と英語で謝り続けながら、大急ぎでその場を去った。

 何事も無かったかのように、今度はしっかり確認の上、王さん(女性)のガイドのツアー客の中に紛れ込んだ。

 幸先の悪い台湾紀行2日目のスタートとなった。

台中の富王大飯店に着くと、風呂のお湯を出し、その合間に携帯やデジカメを充電セット、まずは無事に到着したことを祝って、寝酒用に持って来たブランデーで僕も少々充電した。

 一息つくと、この旅の全体日程や明日の日程を頭の中で復唱した。




 
この旅は、「びっくり台湾ぐるり周遊5日間」と銘打ち、その旅の間に、台中、日月潭、鹿港、高雄、台東、花蓮、太魯閣、九フン、台北などを見て回る。

 一度で8都市を見れて、しかも台湾料理が楽しめ、その上自宅のある新潟から台湾へ旅立てるという、ほぼ僕の希望通りの旅なので、参加しない訳にはいかない企画だった。

 もちろん格安ツアーが売り物の阪急交通社さんの企画なので、一人部屋料金を入れても10万ちょっとしかかからない商品。
もし真冬の1月末の企画に参加していたら7万程度でいけたのだが、その時期は気持ちの方がついていけなかった。



 ただ、日程の方がやはり阪急交通社の企画らしく、豪華ではあるが過密なスケジュールとなっており、病人や身体障害者の方にはキツイかなという内容のものになっていた。

 最も、病人や身体障害者の方はめったに外国旅行には行かないし、行ったにしても楽しめるものではない。
そういう方には、またそういう方用の企画もあるはずで、僕らのような旅には参加してくるはずもなかった。



 
台湾の地図を持ち出して、行き先を赤色で囲って、バスの行程を赤線で引いてみた。

 花蓮から基隆(キールン)までは鉄道利用の旅となり、台湾の特急電車に乗車となる。

 そこからはまたバスで九フンへ行き、観光後台北に行き、ここで台湾一周の旅は完成となる。

 日にちで日程を見てみると

 1日目は、新潟-台北-台中
 
 明日2日目は、台中-日月潭-鹿港-高雄
 
 明後日3日目は、高雄-台東-花蓮
 
 4日目は、花蓮-太魯閣-九フン-台北
 
 5日目は、台北-新潟

ということになり、新潟へ帰ってくる。

 1日目の夜は、明日2日目の行程となる、台中-日月潭-鹿港-高雄までのことを考えながら、11時までには就寝した。

 僕が今回の旅でお世話になった航空会社はエバー航空(エバーこうくう、英: Eva Airways、中: 長榮航空公司)、台湾の航空会社である。

 1989年4月7日に、民間航空会社として大手海運会社・長栄海運(エバーグリーン・マリン)を中心とする企業グループの長榮集団の手により創立され、1991年7月1日に営業を開始した。

 国内最大のライバル航空会社であるチャイナエアラインが頻繁に事故を起こしているのとは対照的に、安全面での評価が高い。



 今年の冬は、海外旅行ファンにとってはかなりの衝撃を受ける事件が続いた。
夢の最新鋭飛行機とされる「ボーイング787」が頻繁にトラブルを起こし、2013年1月16日には、全日空機がバッテリーが関係すると見られる故障で高松空港に緊急着陸するという重大なインシデントまで発生した。また、安全な観光地と言われるグアムでも日本人観光客を巻き込んだ悲惨な事件が起こった。

 そんなこんなで、飛行機に乗るまでは、飛行機に乗ること自体に抵抗感があった。

 僕の心配をよそに、パイロットはまるで乗用車でも運転しているような軽い感覚で飛行機をスタート地点まで誘導走行し、そのスピードを保ったまま90度方向転換すると、一時停止もしないでそのままエンジンを全開し、一気に加速した。

 我がエバー航空BR-161便は予定の午後4時半を待たないで、新潟空港をあっという間に飛び立った。

 このエバー航空BR-161便だが、過去に乗って来たどの飛行機より随分狭く感じた。




 荷物のようにシートベルトに締めつけられながら、満席の機内で機内食として出された夕食を食べ、トイレに行ったりしている間に、3時間半程のフライトは終了。
僕らは無事台湾の桃園国際空港に到着した。

 30分程かけて入国手続きを済ませると、阪急交通社の委託を受けて今回の現地ガイドを引き受けている台湾の金品旅行社の王ガイド(50歳位の女性)の案内で、観光バスに乗り込んだ。




 観光バスは現地時間の午後7時半(台湾は日本時間に比べ1時間遅れ、日本時間では午後8時半)過ぎに、今夜の宿泊先である台中へ向けスタートした。
これから高速道路を2時間ほど走ると、今夜の宿泊地である台中に到着する。

 到着予定時間は2時間後の午後9時半、旅行社の旅行行程表では現地時間の23時15分となっていたが、実際にも計画よりも2時間程早く台中の富王大飯店に到着した。

 去年の10月「韓のくに紀行」を終え、この3月に「台湾紀行」となった。

 新潟の冬は厳しく、12月から翌3月くらいまでは、旅に出ようという気も起こらない寒さが続く。
 本当は4月になってから旅立ちというふうに考えていたが、新潟と台湾を結ぶ直行便での格安ツアーが1月〜3月の台湾人のスキー客が利用する時期のみの就航ということだったので、やむ無く就航期間の最終便での台湾紀行となった。

 出発日は先月の2013年3月23日(土)、帰着日は2013年3月27日(水)、4泊5日の旅であるが、実質の見学は丸3日間という旅である。

 出発日の集合時間は14時30分、フライトは16時30分、エバー航空161便に乗り込んで台湾に到着後バスで台中のホテルまで直行、計画ではホテル到着が23時15分、その日はすぐにベッドで爆睡と推測していた。

 台湾紀行と敢えてこの旅を書くには理由がある。

 僕は司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズの愛読者で、「韓のくに紀行」も「台湾紀行」も、司馬遼太郎の「街道をゆく旅」を教科書として、僕なりの旅を旅してみようと考えているからである。



 実際に旅立つ前まで、司馬遼太郎の文庫本「台湾紀行」(ページ数は430ページもあるが)を2度通読した。

 後は台湾映画『海角七号(かいかくななごう)君想う、国境の南』(原題:海角七號)を旅立つ1月前に見た。

 海角七号は、2008年8月に台湾で公開された范逸臣と田中千絵主演の台湾映画である。
 台湾映画界で、この映画は例外的な興行収入5億3千万台湾ドルを記録し、『タイタニック』に次いで台湾歴代映画興行成績のランキングで2位になった。最初はそう面白くも無かったが、後半になってから画面に惹きつけられた。

 日本統治時代
であった1940年代、台湾最南の町恒春に赴任した日本人教師(中孝介)が、日本名小島友子(梁文音)という台湾人の教え子と恋に落ちる。
 第二次世界大戦の終戦の後(1945年)、駆け落ちを約束していた友子を台湾の港に残して、彼はやむを得ず内地に戻る引揚船に乗った。そして、日本への7日間の航海で毎日恋文(こいぶみ)を書き綴ったのだった




 彼が友子と別れた約60年後、台湾南部で物語が再び時を紡ぎ始める。
 60年前の日本人教師の娘が、死亡した父親の遺品から投函できなかった恋文を発見し、台湾に届けようと郵送した手紙。
 その手紙は、台北ミュージシャンとしての成功を夢見て挫折し故郷の恒春へ帰って来て郵便配達の仕事をしていた阿嘉の手に。
 中身に興味を持ったアガが詳細を知るために封を破ってしまうが、開封しても日本語の手紙は読めず、古い日本統治時代の住所である「高雄州恒春郡海角七番地」を知る者もいなかった。

 物語は、中孝介(60年前の日本人教師と日本人歌手である本人の一人二役)が公演するビーチコンサートの前座バンドとして結成されたアガを中心とした6人の地元の人々を中心に展開し、日本人教師が綴った恋文が日本名小島友子(梁文音)に無事届けられるラストシーンが感動を誘う。




 
おいおい触れたいと考えているが、僕ら日本人は全く自覚も無く記憶も薄れてしまっているが、台湾という九州程度の大きさの美しい島は、1895年から1945年までの50年間、日本の国に属していた。
 そこに住む人々は、その当時は日本国民で、日本人としての教育を受け、日本人として生活していたのである。

 司馬遼太郎の文庫本「台湾紀行」には、いかに彼ら日本国民時代に育った台湾人が日本人よりも日本人的かというシーンが、場所を変え人を変え、繰り返される。

 そういうシーンに遭遇する機会が今回の旅であるかどうかわからないが、兎に角旅は始まった。

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