世界の最長河川中心に探険中!探険家よっしいのブログ

探険、冒険大好き人間、世界の最長河川中心に探険中! 探険・冒険大好き人間 中でもアンデス・アマゾンに惹かれる。 好きな食べ物はラーメンとカレー 好きな音楽はラテン

2014年05月

 アミ族ショーを楽しんだ後は、市内のレストラン(記録がないのでどこかは不明)で広東料理での晩餐となった。

 ここでは酢豚などの僕ら日本人が普段親しんでいる料理が出されたので、メモには今まで台湾で食べた料理の中で一番合っていたと書いてあった。
 なお、スープはとびきり美味しいコーンスープと記録にあった。
 晩餐の後は、今夜の宿である花蓮の「統帥大飯店(マーシャルホテル)」に向かった。



 「統帥大飯店」は、花蓮駅から車で5分程度の距離にあるリゾートホテルで、繁華街地区に位置し、観光にもビジネスにもとても便利なホテル。
 昔からアミ族の居住エリアだった花蓮をイメージして、エントランスには原住民の躍動感と情熱を表現する男女の大理石彫像が飾られていた。



 写真撮影はしなかったが、ロビーには、原住民彫刻家の手によるという、素晴らしい彫刻もあった。
 原住民の生活スタイルをホテルの装飾にまで随所に表現しているところに、アミ族と共生して生きてきた花蓮の特色が感じられた。



 円形の窓という独特のスタイルの客室もユニークで、部屋に入るとこんな感じ。
窓の外には華蓮の市街地が広がっている。



 今夜は台湾での4日間の宿泊の中で唯一夜間活動のない日となったので、部屋のテレビで日本語放送を見たり、のんびりゆっくり風呂に浸かったり、携帯に入れてきたK-POPの新曲を聴いたりして、安物ウイスキーの水割りを飲みながら、優雅に台湾の休日を過ごした。

 それでは、アミ族のショーを見学である。



 花蓮市内の地図だが、赤矢印の位置がアミ族ジョーの行われる阿美文化村である。
 ショーは1回目が夕方の午後5時半から、2回目が午後7時半からということで、それぞれ1時間程行われる。
 僕等のツアーは1回目の開演時間に合わせて、午後5時少し過ぎに、ここに到着していた。

 ここで偶然、台中でバスの乗り違いをしそうになった東京出発のツアーガイド葉さん(男性)グループの一行と一緒になった。
 気まずいので、特にガイドの葉さんには気づかれないように、視線を合わせないよう下を向いて、葉さんグループをやり過ごした。
 ショーの会場に入ってしまえば、席も遠く離れたのでこっちのもの、楽しい旅が気まずい旅になるところだった。




 会場には3分の1も観客が入っていなかったが、しばらく会場で待ってから音楽とともにショーが始まった。
 ショーの内容だが、若い男女の踊り子が民族衣装を着て、アミ族の生活に密着した踊りを踊るというもの。
 具体的な内容は、戦いの踊り、バンブーダンス、結婚式の踊り、豊穣を祈る踊り等。
 見ているだけでなく、ショーの後半から、観客を踊り場へ引き込んでみんなで踊りの輪を作って踊る時間もある。それではショーの始まりである。




 司会の説明の後、アミ族の8人の若い男が会場に隊列を組んで走って入場、続いてアミ族の7人の若い女が並んで走って入場し、輪になって様々に繋がりながら踊る。
 この15人が今宵の踊り子さん(ダンサー)たちである。王ガイドがバスの中で話していたが、男のダンサーは現役のアミ族出身の体育大学生がアルバイトで踊っているが、女のダンサーについては若い娘もいるが相当な年増女(おばちゃん)も踊っているという。
 華やかな民族衣装に見とれて、おばちゃんの踊りにうっとりするところだった。




 一方、現役体育大学生は全員若くエネルギッシュで、このバンブーダンスも激しいリズムの中を飛んだり跳ねたり逆立ちしたり、迫力のあるダンサーぶりだった。




 見ていて楽しかったのは豊穣を祈るで、臼に入れた米を杵で付いたり、ザルに入ったコメを曲芸のように空中に放り投げてはザルに戻す技を複数の女が演じていて、それが見事にシンクロしていた。
 結婚式のシーンも、結婚式を司るシャーマンのような風体の女祈祷師が、派手な動作で会場の大拍手を何度も貰っていた。



 仕掛けは解らなかったが、口から何度も何度も怪しげな煙を出して、神聖な結婚式シーンに華を添えていた。
 そして、最後に観客も一緒に踊る時間となった。僕等のツアーの人たちも何人かアミ族に誘われて踊りの輪の中に入っていった。



 何と僕にもアミの年増ダンサーから誘いがかかり、貴重な体験ということで、アミ族と観客との踊りの輪の中に入った。

 アミ族の男は若いし何といってもルックスと裸で勝負しているので、誘われたおばちゃんやお姉さん達はうっとりしていた。
 おじさんたちも、アミ族の人形のような顔立ちの女に手を握られて、顔がしわくちゃになっていた方もいた。

 期待していた以上に楽しくアミ族ショーを楽しめた。

 ヌビアとは、アフリカの北東部、ナイル川上流地方の呼称。一般に,ナイル川第1瀑布上流から、東は紅海、西はリビア砂漠、南はスーダンのハルツーム付近までの地域をさす。

 ナイル川の渓谷をはさんで、北東部にはヌビア砂漠、北西部には高原がひろがり、降雨量の少ない乾燥地帯である。住民はもとニグロ系人種であったが、エジプト人・アラブ人と混血した。

 その大部分はナイル川流域で農耕を営むが、砂漠では遊牧も行われている。ヌビアは古代から、奴隷や黄金・牛の供給地として、エジプトにとって重要な地域であった。
 6世紀にはキリスト教王国がたてられたが、7世紀中ごろからイスラム教徒の侵入を受け、14世紀にマムルーク朝に征服されてイスラム化した。
 
 
 
  伝説の民であるヌビアだが、現在その末裔はエジプトとスーダンに住み、人口はおよそ6070万ほどである。
  人種的には、アラブ系スーダン人に近く、エチオピア人とも近縁。外見の特徴は、エジプト人より肌の色が黒く、縮れた髪の毛を持っている。

 
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                     ヌビア人、ファルカの船頭です。

  アスワンはヌビア人がその市街地の西側に居住している街である。
  やはり、アイーダの末裔のその後は気になるところであり、アスワンの名物であるファルカというヨットに乗り、ナイル河を渡り、西岸にあるエレファンテネ島に住むヌビア人を訪ねた。

 
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                  ヌビア村の通り

  だが、現代のヌビア人はどうやら黄金の国の末裔ではなく、アメリカインディアンのような境遇の人々だった。彼等は政府指定の居住地を拒否し、昔からの生活の場所に近いエレファンテネ島などに住み、ファルカの船頭や観光客目当てのみやげ物売りなどで生活していた。
  対岸のアスワン市街地とは格段に生活レベルが低く、民芸品やみやげ物を高い金で売りつけようとしたり、可愛い母子写真を何気なく撮ったら、お金を要求されたりもした。(もちろん、ヤクザな方が出てきそうなので、すぐ払ったけどね。)

 
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                    したたかというか貧しいというか・・

  町中はごみがいたるところに散乱して、対岸に住むアラブ系の人々に比べ、ヌビア人の経済的な生活の貧困さを象徴しているようだった。
 戦争という暴力でなく、経済という暴力で奴隷的立場を継続させられているヌビアの歴史が現代も続いているようで、アイーダ姫の悲鳴が聞こえるような気がした。

 
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                        町中のヌビア人たち
     
 
 

台湾原住民の祖型がわかったところで、話を進めて行く。
 
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現在、政府から認定された原住民族は、タイヤル(アタヤル)、アミ、ヤミ(タウまたはタオ)、プユマ、パイワン、ルカイ、ブヌン、ツォウ、サイシャット(サイシヤット)、サオ、タロコ、カバランの十二族で、住み分けは上図のとおり。
 
台湾原住民族の歴史だが、1603年(明:万暦31年)に著された『東蕃記』では、台湾原住民は一括して「東蕃」と呼ばれていた。
漢民族人口が増加してきた18世紀から19世紀頃に、台湾島の平地に住み漢化が進んだ原住民族を「平埔番」と呼び、特に漢化が進んだ原住民族を「熟番と呼んた。
同時に、漢化が進んでいない原住民族を「生番」または「高山番」と呼ぶようになった。
 
1895年(明治28年)から台湾の領有を始めた日本は、当初清国の分類と名称を引き継いだが、やがて日本の学者によって1935年(昭和10年)に、「平埔蕃」を「平埔族(へいほぞく)」、「生蕃(せいばん)」を「高砂族(たかさごぞく)」と呼称を改めた。
台湾原住民族に対する研究は日本の台湾統治時代から始まる。
台湾が日本領になった直後、日本にない風習を多く持つ台湾原住民に興味を惹かれた多くの民族学者、人類学者、民俗学者達が台湾に渡った。
 
 
 
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鳥居龍蔵博士
 
代表的な人物は鳥居龍蔵(1870年〜1953年)、伊能嘉矩(1867年〜1925年)、鹿野忠雄(1906年〜1945?)、森丑之助(1877年〜1926年)、移川子之蔵(1884年〜1947年)、宮本延人(1901年〜1987年)、馬淵東一(1909年〜1988年)、千千岩助太郎(1897年〜1991年)、小川尚義(1869年〜1947年)、浅井恵倫(1894年〜1969年)らである。
彼らは平埔族の集落を訪ねたほか、山々の村落を巡り、台湾原住民が独自の生活風習を保っていた時代の調査報告や写真を残し、それらは現代においても台湾学術界に引き継がれ、貴重な史料となっている。
 
第二次世界大戦後、日本に代わって台湾を統治した中華民国政府は、現住民族のうち日本人によって「高砂族」に分類された諸民族を漢語名で「高山族」または「山地同胞」「山地人」と呼称して同化政策を進めた
しかし1980年代以降の民主化の流れの中で原住民族が「原住民権利運動」を推進、中華民国政府に対してこれまでの同化政策の変更を迫った結果、中華民国憲法増修条文を始め、政府の公式文書にも「原住民(族)」、「台湾原住民族」という呼称を承認させた。
さらに、漢民族(「平地人」)とは別の者として「原住民」籍(身分)を設定した。
そして我がアミ族である。
 
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アミ(Ami, 中国語:阿美族、別名:パンツァハ、パンツァ)族は、台湾原住民のなかで一番多い167734人、原住民族の約37%を占める民族。
居住地域は台湾の東部一帯、花蓮県・台東県・屏東県に亘る広い範囲。
主に平地に集落を構え、中央山脈と海岸山脈(東岸山脈)の間にある細長い渓谷地域(花東縦谷)、その両端の花蓮市や台東市周辺の平野部、海岸山脈の東側の太平洋沿いの平地、台湾南端の恒春半島に住んでいる。
アミ族はコメなどの農業やブタなどの畜産で生活し、海岸部では漁業を営んでいる。
伝統的な集落は他の原住民の集落に比較して大きく、500人から1000人規模が典型的である。
 
また台北市や高雄市など、台湾各地の大都市にも拡散しており、「大都市の原住民」の多くを占めている。
 
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アミ族からは多くの歌手、芸能人、スポーツ選手、その他学者、教育者、政治家などが輩出されている。

 高雄から花蓮までの400km程の観光バスの旅は終了、目的地の花蓮市には午後4時半ころ到着した。

 花蓮市は花蓮県の県都である。
 
 ここで花蓮県の概要を紹介すると、花蓮県は台湾東部中央に位置し、西方は台湾中央山脈、東方は太平洋に面している。




 面積は同国の県の中で最大であるが、大部分を山岳地帯が占め、平地は僅か7%しかなく、人口の大部分はこの平地に住んでいる。

 もともと花蓮市は荒野が広がる無人地帯で、都市として発展を始めたのは日本統治時代のこと。
 日本統治時代の1920年に花蓮港庁花蓮港支庁花蓮港街として誕生、その後台湾4大港の一つとして発展した。
 1937年に郡制施行により花蓮港庁花蓮郡に属し、1940年に市制施行により花蓮港市に、更に戦後の1946年に花蓮市と改称されて現在に至っている。
 

 日本統治以前の花蓮の歴史を遡ると、花蓮は元来奇莱と呼ばれていて、1622年にスペイン人が来航し、多羅満と呼ばれていたこの地で砂金を採っていた。
 漢人が初めて入植したのは1851年で、当時は台湾東部への交通は海路に限られており、それは日本統治時代の1932年に臨海道路(現・蘇花公路)が開通するまで続いたという。
 その花蓮市で、これから台湾原住民族の中で最大の人口を誇るアミ族のショーを見学する。
 アミ族は台湾現住(先住)民族の中では最大の民族集団である。



 台湾原住民は2004年末で人口約45万人、台湾の総人口約2,100万人と比べると、全体の2%ほど。
 アミ族は台湾原住民のなかで一番多い16万7734人、原住民族の約37%を占める。

  最初の現人類がアフリカに生誕し、そこから世界中に拡散したが、オーストラリアには5万年前、ヨーロッパには4万年前には到達したという。



 台湾には恐らくヨーロッパ並の4万年前位に到達したのだろう。
 台湾に到達した現人類の祖先は、オーストロネシア語族(かつてはマレー・ポリネシア語族と呼ばれていて、日本語では南島語族とも訳される。)として、台湾から東南アジアの島々、太平洋の島々、マダガスカルに広がっていったことが、言語学的な調査により解っている。

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