世界の最長河川中心に探険中!探険家よっしいのブログ

探険、冒険大好き人間、世界の最長河川中心に探険中! 探険・冒険大好き人間 中でもアンデス・アマゾンに惹かれる。 好きな食べ物はラーメンとカレー 好きな音楽はラテン

2016年04月

スーダンの歌
イメージ 1
 
クリックです!! ↓ ↓

エジプトのベリーダンス
イメージ 1
 
クリックです!! ↓ ↓

北の荘城址公園の次は、福井県にゆかりのある郷土の偉人である松平春嶽岡倉天心のゆかりの地を訪ねた。

イメージ 1

赤星印の場所に今夜の宿である宝永旅館があるが、旅館の近くにア;郷土歴史博物館とイ;松平春嶽ゆかりの養浩館庭園があり、そこからかなり離れてウ;岡倉天心郷家の跡(岡倉家の実家跡)がある。
まず、郷土歴史博物館に入った。
ここはじっくり見たかったが、大学生と小学生のそれぞれ30名ほどの団体二組の見学が気になり、頭の中に見学したはずの展示物が残らなかった。

イメージ 2

ただ笏谷石を使った石棺の展示だけは頭に入った。
越前の古墳から出土する石棺はそのほとんどが笏谷石製で、九頭竜川の流域に広範囲に広がっていて、笏谷石石棺の出現は継体大王の時代よりも古い古墳時代前期に遡るとされている。
午前中に見学した足羽山山頂に建つ継体天皇像のある山頂の丘は、実は4世紀後半から5世紀前半につくられた円墳で、石像の下から笏谷石製の舟形石棺が発掘されている。
足羽山の尾根上には直径30メートル以上の噴丘が並び、足羽山古墳群を形成して、これらの古墳からも笏谷石製の石棺が多く出土している。
郷土歴史博物館では、福井の地で生活していた継体大王のことだけが記憶に残った。
次に、松平春嶽ゆかりの養浩館庭園に入った。

イメージ 3

養浩館庭園は福井城本丸の北約400メートルの場所に位置しており、旧福井藩主松平家の別邸として江戸時代には「お泉水屋敷」と呼ばれていた。
現在の規模の建物と回遊式林泉庭園が完成したのは1699年で、その後拡大と縮小を繰り返した。
1708年に第7代藩主松平吉品が御泉水屋敷を改築し、同時に自らの隠居屋敷として敷地を増設した上で新建造物を増築した。
養浩館の名前は明治になってから同屋敷を所有していた元藩主の松平春嶽が名付けたもの。

イメージ 4

松平春嶽は第16代越前福井藩主で、幕末から明治時代初期にかけて活躍した福井県が誇る偉大な政治家である。
明治の元号は中国の書物である「易経」の中の「“明”に嚮(むか)いて“治”む」という言葉から名付けられたものだが、春嶽が明治天皇に提案したものだという。
春嶽は8代将軍徳川吉宗が創設した御三卿の1つである田安徳川家の生まれで、吉宗の玄孫(やしゃご=孫の孫)に当たるという。
幼少期から勉学や稽古など厳しくしつけられて育ち、1838年に福井藩主・松平斉善の急死に伴って養子となり、わずか11歳で藩主の座に就いた。

イメージ 5

趣味の読書で培われた教養を武器に、春嶽は藩政改革を次々に断行していく。
主な改革は
領内の経済の安定化のための藩札発行
西洋の科学技術や経済学を学ばせ人材を育成するための藩校「明道館」の開設
橋本左内、中根雪江、三岡八郎(後の由利公正)など身分を問わない人材を登用
対外政策や殖産興業派を登用し洋式大砲の製造開始
全藩士の給料を3年間半減し自身の経費も5年間削減し予算を縮小し藩の経済を安定化など。
二十歳にもならない10年間に行なったこれらの業績から、春嶽は名君と称され幕末四賢侯の一人と謳われている。(幕末の四賢侯:松平春嶽、伊達宗城、山内容堂、島津斉彬)
幕政改革にも乗り出し、現代の内閣総理大臣に当たると言われる「政治総裁職」に就任した。(将軍後見職に一橋慶喜、京都守護職に松平容保)
その後いろいろあって、春嶽が掲げた公武合体の理想は崩れ、大政奉還となり明治の世となる。

イメージ 6

明治維新後の新政府では内国事務総督、議定、民部卿、大蔵卿などを歴任、徳川宗家を存続させるために赦免活動に努めたと言われている。
明治政府の藩閥的で特権主義なやり方に当初から不満を抱いていた春嶽は、1870年に全ての官職を辞して政界を引退,亡くなるまでの20年間を執筆活動に専念した。
松平春嶽の前を辞し、次の岡倉天心郷家の跡(岡倉家の実家跡)に向かった。

イメージ 7

岡倉天心は明治という時代が生んだ巨匠で、有名な方なので彼の説明は省く。
岡倉天心郷家の跡には見物人の影もなく、石碑だけが建てられていて、よほど興味のある方でなければ誰も見学に来ない様子だった。

イメージ 8

今日は継体天皇から始まり、日本史上に残る福井市ゆかりの偉人たちと時間の許す限り対面でき、とても幸せな時間を過ごせた。

エジプトのダンス
イメージ 1
クリックです!! ↓ ↓

松田伝十郎は江戸時代の越後国出身の幕臣・探検家で、間宮林蔵と樺太を探検し、樺太見聞の実測図を作成した。
伝十郎は越後国頚城郡鉢崎村(現新潟県柏崎市)の貧農浅貝長右衛門の家に長男として生まれ、そこで道普請をしていた幕臣大西栄八郎にその才能を見出されて江戸に赴いて武士となるべく修行した。

イメージ 1

その後、大西の同僚の松田伝十郎(先代)の養子になり、1808年に養父が没すると松田伝十郎の名を継いだ。
17992月、幕府はロシアの南下がしきりに伝えられる情勢に対処し北方防備を強化するため東蝦夷地を松前藩領から直轄とし、松平忠明を蝦夷地御用掛に任じて経営にあたらせた。
伝十郎は蝦夷地直轄に際して蝦夷地勤務を志願し、1822年に蝦夷地が松前藩領となるまで幕府御用掛として樺太探検と蝦夷地経営に従事した。
松前奉行支配下役元締となった伝十郎はアツケシに上陸、アブタ・エトモに赴任し越年した。
1803年には択捉島に赴任、そこで越年した。
1807年、幕府は松前藩を移封して西蝦夷地と樺太を直轄地とし、全蝦夷地を直轄統治することとした。
ここからが、今回の話の本番である。
18082月、伝十郎は樺太奥地と黒龍江下流の探検を命ぜられ、函館奉行支配下の間宮林蔵を従えて樺太を探検した。

イメージ 2

その当時、樺太は大陸の一部と考えられており、未知の土地であった。
413日に宗谷を出航し樺太南端のシラヌシ(白主)に到着後、アイヌの人が案内する小さな舟に乗り、間宮林蔵は樺太を東海岸側から、松田伝十郎は西海岸側から二手に分かれて探検を開始した。
東海岸側を小舟で北上した林蔵は北知床岬に至り、これより北上を諦めて西海岸へ出た。
一方伝十郎はそのまま西海岸を北上し、ラッカ岬まで辿り着いた。
ラッカ岬は海に突き出た眺めのよい岩石岬で、北方を見ればマンゴー川の河口がのぞまれ、西方を見れば山丹の山河がはっきり眺められた。

イメージ 3

この時の現地の聞き取りや、北に行くにつれて海が狭くなり浅瀬となり潮流も強くなることから、伝十郎はほぼ樺太が島であることを確信した。
林蔵も伝十郎などの案内でラッカ岬に行き、樺太が島であると確信した。
伝十郎はこのラッカ岬に、「大日本国境」の木柱を建てた。
同年10月、伝十郎は江戸に戻り、樺太見聞の実測図を幕府に提出した。
林蔵は翌1809年に再度渡樺し沿海州までおもむき、樺太が島であることを発見する。
松田が確信した海峡が間宮海峡とされたことについては、林蔵の探検報告書が幕府天文方高橋景保に提出され、景保が日本近海航図にカラフトを離島と表し、その地図がオランダ商館シーボルトによりMamia Str.として紹介されたからだという。
松田伝十郎ファンは、松田海峡でなく間宮海峡となってしまったのは、功名心の強い林蔵が探検隊長である伝十郎を差し置いて自ら幕府役人高橋景保に報告したからだといっているとか。

イメージ 4

伝十郎の地元である新潟県米山町の人々は松田のカラフト探検を称え、「カラフトは離島なり、大日本国境と見きわめたり」と刻んだ碑を建立している。
松田伝十郎の偉大さは樺太探検だけではない。
樺太が半島ではなく島であることを確認した翌年、伝十郎は再び樺太の地を踏んだ。
幕府の命令により白主で行われるアイヌと山丹との山丹交易【山丹交易とは、江戸時代に山丹人(山旦・山靼とも書く。主にウィルタ族の他、ニブヒ族、オロチョン族など沿海州の民族)と、アイヌとの間で、主として樺太を中継地として行われた交易のこと。】の監視のためである。
当時の樺太における山丹人の交易は横暴を極めていた。
毎年夏になると数十艇の山丹船が白主にやって来て、樺太では得られないアワ・ヒエ・ムギや山丹青玉、綿などの物品を無理やり置いていき、高利をつけて1年後に決済するという山丹方式の商売をやっていた。
翌年交換する毛皮などが無い場合は、その質として子供や娘などを連れ去った。
伝十郎の前までは松前藩の役人が夏期の間だけやってきて交易の監視をしていたが、不正の取締はほとんどしなかった。
樺太南部に住むアイヌ人たちは山丹人に怯え、山丹人がやってくる時期になると貴重品を隠し、山奥に逃げ出す者も多くいたという。

イメージ 5

西蝦夷地と樺太を直轄地に加え、全蝦夷地を直轄統治することとしたのに、直轄地の樺太南部に住むアイヌ人は交易に来る山丹人に怯え、山丹人もアイヌ人を暴力的なやり方で支配し、現地にいる松前藩の役人を馬鹿にしていた。
伝十郎は直轄地のアイヌへの強い思いから、山丹人との交易によるアイヌ人の抱え込んだ負債を幕府が肩代わりして払ったりもした。
また交易に来る山丹人に礼儀を守らせることも命じた。
具体的には会所に出入りする時は笠や履物を脱ぐこと、くわえタバコの禁止である。
伝十郎は強い態度で山丹人に接したため、赴任して1ケ月もすると山丹人の無礼な態度はまったく影を潜めたという。
松田伝十郎は偉大さな探検家だけではなく、有能な行政官でもあった。
 

↑このページのトップヘ