世界の最長河川中心に探険中!探険家よっしいのブログ

探険、冒険大好き人間、世界の最長河川中心に探険中! 探険・冒険大好き人間 中でもアンデス・アマゾンに惹かれる。 好きな食べ物はラーメンとカレー 好きな音楽はラテン

2017年08月

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                宿泊したホテルからギザの三大ピラミッド遠望  ↑

 カイロ(Cairoは、エジプトの首都であり、ナイル川河畔の交通の要衝の地として、イスラム世界における学術、文化、経済の中心都市となっている。

 現在、カイロ首都圏の人口は1500万程、中近東やアフリカ大陸の中で最大の人口を誇っている。

 ナイル川が形成した河口部の肥沃なデルタ地帯のほぼ中央に位置し、イスラム帝国が7世紀にエジプトを征服したとき、征服者アラブ人の住む軍営都市(ミスル)が置かれて以来のエジプトの首都であるが、エジプト人は自国を呼ぶ時にはエジプトとは言わず、マスル(ミスルのエジプト方言)という。

 カイロは、英語名の Cairo (勝利の都)に由来しており、現地語であるアラビア語ではアル=カーヒラ(
القاهرة al-Qāhira)という。
 
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                     カイロタワーからの市街地風景 ↑

 カイロの中心市街はナイル川の右岸、東側に位置する。ナイルをはさんで対岸の西郊には、ピラミッドで有名なギザの町がある。町の南は古代エジプトの中心都市のひとつ、メンフィスである。

 カイロで最も有名で、最も重要で、カイロへの旅行者必見の館、それがエジプト考古学博物館(カイロ博物館)である。

 
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          博物館正面の大ホール、アメンヘテプ三世とテイ王妃の座像 ↑

 僕はインディジョーンズに憧れ、考古学者を目指した過去があるので、ここは僕にとっては聖地のようなものである。

 ここの収蔵点数は20万点にものぼると言われ、展示物1個に1秒の割合で見ても、全部見るのに2日半くらいかかる計算になる。(気が遠くなります。)

 やはり、ここの目玉は、イギリス生まれのエジプト考古学者ハワード・カーター(Howard Carter, 187459 - 193932)1922年に発見したツタンカーメン王の墓から発掘された黄金の玉座黄金のマスクなど、ツタンカーメン王の副葬品類である。

 
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  黄金の玉座 ツタンカーメン王と王妃アンケセナーメンのくつろぐ姿が描かれています。  ↑
 
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                      ツタンカーメン王の黄金のマスク ↑


 博物館にはもうひとつの目玉がある。それは、古代ファラオのミイラ達である。その特別展示室には征服王ラムセスII世、トトメスIII世、セティI他、数体のミイラが展示されている。(ここは写真撮影禁止だった。)

 中でもラムセス2世のミイラは、保存状態が格段に良く、まるで寝ているようで、今にも起きだして動きそうな感じだった。(夜は、ここは怖いヨ。
)

 エジプトのファラオ中で最も権力があり、最も有名なラムセス2世は、92歳で亡くなったミイラとは思えない背の高さがあった。(精力が強そうな感じがした。
)
 
 


 午前中に膨大な資料館(博物館)を斜め読みと駆け足で通り抜けた後、午後からはカイロの南部のナイル河流域に細長く現存している、ピラミッド群を訪ねた。

 
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                          ピラミッド群地図  ↑

 ピラミッドというと、ギザの三大ピラミッドだけが特に有名だが、実際は約60ほどのピラミッドが既に見付かっており、最終的には100程度のピラミッドがエジプトには存在するようである。

 ダハシュール にて
 赤のピラミッド、その先には屈折ピラミッド、さらに奥にはアメンハト3世の崩れピラミッドが見えた。

 
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                         赤のピラミッド ↑

 
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                         屈折ピラミッド  
 
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                    アメンハト3世の崩れピラミッド ↑

 サッカラにて

 
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             ジュセル王の階段ピラミッド、最古のピラミッドである。↑

 アブ・シールにて
 サフラー王、ネウセルラー王、ネフェリルカラー王の三つのピラミッドがある。
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                               サフラー王 ↑
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ネウセルラー王 ↑
 

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                             ネフェリルカラー王↑

 ダハシュール、サッカラ、アブ・シールと10個程のピラミッド群を午後いっぱい見て回った。

 やはり、エジプトと言えばピラミッド、そしてミイラということになる。

 ピラミッドは王様の墓であると一般的には言われているが、ピラミッドが王様の墓だという証拠や文献はない。

 この王の墓説は、紀元前5世紀のギリシャの歴史家であるヘロドトスの著書である「歴史」の中で、「ピラミッドは王の墓である」と述べているのが根拠で、その根拠であるヘロドトスの調査も、ピラミッドの近くに住んでいた長老に尋ね、長老の「これは先祖伝来王様の墓と言われている」という答えを聞き書きしただけのものである。

 ピラミッドは王の墓の他にも、倉庫とか運命を予言するものだとか日時計とか言われてきたが、20世紀初めになると、経済学者がピラミッド公共事業説を言い出した。

 ナイル河は1年のうち7月から10月の4ケ月間氾濫する。そのため、国民の99%を占める農民は農作業が出来ずに失業する。

 その農民に仕事を与えたのがこのピラミッド建設で、公共事業としてピラミッドの建設を行い、労働の対価として王の取り分(全農民の収穫量の半分)の半分を農民に支払った。

 ピラミッド建設は、エジプト農民の生活を支え、文化や物資の交流を促進し、エジプトの民に自信と誇りを持たせる偉大な事業だった。

 ところで、ミイラの作り方を知っているだろうか?

 やはり出典はヘロドトスの著書である「歴史」で、ここに「曲がった刃物を鼻から入れて、脳を掻き出して、それから内臓を抜いて洗浄し、遺体を70日間ソーダ漬けにする。」と記載されている。(実際にやってみたくなるよ、犬や猫くらいにしとこうかな。)

 
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                      正しく作られたエジプトのミイラ↑
 
 


 僕は一旦砂漠から街へ帰り、陽が落ちてから、カイロタワー近くでエジプト名物の鳩料理を食べ、タワーに上がり、ナイルの来し方、行く末をしっかりと確認し、上流への危険な旅のための心の準備を再度行った。(食事はイスラム教徒のラマダン(断食)の儀式に従い、エジプトの旅の間は、日没後に頂くことにした。)
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                     夕暮れのカイロタワー風景 ↑


 そして、今回のスター、スフィンクス(SPHINX)の見物となる。

 夜の三大ピラミッドとスフィンクス見物に便利なように、あらかじめ宿をギザに確保していた。

 三大ピラミッドの配置はオリオンの三ツ星の配置を真似たという説があり、その説によれば、ピラミッドはオシリスの星であるオリオン座、そしてオシリスの妻イシスの星であるシリウス、それらにまつわる神話の世界を地上に描いたもの。
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                       ピラミッド配置図 ↑

 三大ピラミッドは自国に自信と誇りを持たせる偉大な事業の成果と前に書いたが、そのピラミッドの守護神であるスフィンクスの物語は、何度見聞きしても興味深い。

 ギリシャ神話によれば、スフィンクスは、女性の頭、犬の胴、ライオンの足、蛇の尾、鳥の翼、女性の胸を持ち人語を話す怪物である。
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                        スフィンクスとピラミッド ↑


 スフィンクスとは元来、ギリシャ語で"絞め殺す者"という意味であるが、ギリシャの都市テーバイの街の西方にある岩山に陣取り、通行人に謎を掛けて、解けない者を食べていた。

 その謎はこのようなものである。

 「一つの声を持ち、二つ足にして、また四つ足にして、三つ足なるものが地上にいる。地を這い、空を飛び、海を泳ぐ者どものうち、これ程姿、背丈を変える者は無く、これが最も多くの足に支えられて歩く時にその肢体の力は最も弱く、その速さは最も遅い」

 その謎を解いたのが、あのオイディプス王だった。(予言どおりに、実父を殺し、実母と交わり、四人の子女をもうけた悲劇の王で、数あるギリシャ悲劇の中でも、最大のヒーローである。)

 オイディプスは「赤ん坊の時は四つん這いで歩き、やがて、二本足で歩く、そして、晩年には第三の足として杖を用いる、答えは人間也と。」と答え、スフィンクスを退治した。


 スフィンクスの謎は、解けなければ命を失う点で、Halsr
el(首を賭けた謎)と言えるが、この種の謎としては、トゥーランドットの謎もスフィンクスの謎と並び有名である。

 トゥーランドットはプッチーニのオペラで知られているが、話の原典は千夜一夜物語などからと思われている。

 
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                    歌劇「トゥーランドット」より ↑

 中国の王女トゥーランドットは、結婚の条件として3つの謎を解くことを求婚者に求め、それに正しく答えられなければ首をはねた。

 恐怖を乗り越え、ダッタン(モンゴル)の王子であるカラフが、Halsr
el(首を賭けた謎)に挑む。
 
 


 その謎とは
1 暗い夜に虹色の幻が舞う。 そして黒い無数の人々の上に翼を広げる。 それは全世界が欲するもの。 それは全世界が求めるもの。 夜明けとともに消えるが、心の中には消え残る。 それは夜ごとに生まれ、朝には死にゆく。

  回答「希望」

2 炎のように踊りはねる。 だが炎ではない。 時にすさまじく沸きおこり、衝撃と激情の熱と化す。 無気力により衰え、敗北あるいは死により冷える。 征服を夢みるなら熱く燃える。 そこにはそなたが心さそわれる声があり、鮮やかな夕焼けの輝きがある。

  回答 「血潮」

そして最後の問題が3です。(この問題を回答ください。)

3 そなたに火をつける氷。 それはそなたの火により、むしろ冷たさを増す。 それは白くもあり黒くもある。 そなたを自由にと望めばいっそう下僕となし、下僕とすれば王となす。


 皆さん、この3番の答えが解りますか?解れば、楊貴妃やクレオパトラと同程度の絶世の美女「トゥーランドット」は、あなたのものだ、回答出来なければスフィンクスに食べられてしまうよ、トホホ・・(答えを自由にコメント欄に記載ください。)

ヒント 答えは、人の名だよ。(荒川静香のトリノでの金メダルの舞いに使われていた曲の名でもある。もう解ったかな?) 君は、カラフ王子になれたカナ?

歴史民俗資料館の次に、市指定文化財となっている旧伴家住宅を見学した。
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旧家主の伴庄右衛門は江戸初期に活躍した八幡商人で、屋号を扇屋といった。
寛永年間に東京日本橋に出店し、麻布・畳表・蚊帳を商い、5代目の伴蒿蹊は18歳で家督を継ぎ大坂淡路2丁目に出店したが、同じに学問にも興味を持ち、本居宣長、上田秋成、与謝蕪村らと親交のある国学者となった。
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旧伴家住宅に入ったが大きな屋敷で、家の中には名のありそうな絵師の書いた屏風絵が飾られていた。
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この書画屏風も名のある方の手によるものだと思うが、名前まで見なかった。
現在の旧伴家住宅は、7代目伴庄右衛門能尹が伴庄右衛門家本家として、1827年から1840年まで十数年をかけて建築したものだが、明治時代になって当時の八幡町に譲渡してから小学校・役場・女学校と変遷したという。
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今はがらんとして何もないが、戦後近江兄弟社図書館として使用され、後に近江八幡市立図書館となり、今に至っているという。
次に、旧西川家住宅を見学した。
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旧西川家住宅は、近江八幡市にある歴史的建造物で、江戸時代から明治時代前半にかけて活躍した近江商人西川利右衛門の屋敷で、国の重要文化財に指定されている。
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 中に入ってみると、家の造りは重厚である。
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調度品もしっかり展示されていて、飾られている書画には格調の高さを感じた。
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庭も趣があり、見飽きなかった。
この家は昭和1930年に子孫が途絶えてからは土地と建物は市に寄贈され、郷土資料館・歴史民俗資料館・旧伴家住宅と併せて一般公開されている。
この後昼食タイムとなり、街中の洒落た軽食喫茶で、1300円の「近江牛カレーぜいたく野菜入り」を食した。
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ここのマスターが、「うちの牛丼もカレーライスも味は保証する、とてもおいしいと誰でも言ってくれる」と保証してくれた評判の味は、やはり評判通りの味で、濃厚で深みのある本格カレーを美味しくいただいた。
 
 

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                      カイトベイ要塞全景  ↑

 アレクサンドリアAlexandria)は、カイロに次ぐエジプト第2の都市である。現地語であるアラビア語ではアル=イスカンダリーヤ(
الاسكندرية al-Iskandarīya)、意味は「アレクサンドロス(アラビア語でイスカンダル)の町」である。
 マケドニア王アレクサンドロス大王は東方遠征の途上で、オリエントの各地に自分の名を付けた都市を建設したが、アレクサンドリア(Alexandria)はそれらの都市の第1号である。
 「地中海の花嫁」とも呼ばれ、街中に英語の看板も多く、多くの文化的な要素を合わせ持つ、独特かつ開放的なコスモポリタン都市であり、国際観光・商業都市でもある。
 
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                        市街地風景 ↑

 アレクサンドリアの観光場所は、セシルホテル横のサードザグルール広場を中心として、東側(カイトベイ、ポンペイの柱、カタコンベ)西側(国立博物館、グレコローマン博物館、アレクサンドリア図書館)の大きく2つの地域に分けられるが、東西半日ずつ、併せて1日で見て回れる。
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                      宿泊場所付近風景 ↑

 花嫁の町では、まずアレクサンドリア図書館へ行った。
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               アレクサンドリヤ大学構内から見た図書館  ↑

 2002年にオープンしたアレクサンドリア図書館は、紀元前3世紀にプトレマイオス1世がこの地に開いたというアレクサンドリア図書館(紀元前43年、シーザーのアレクサンドリア攻撃により焼失)を現代に復活させたもので、ユネスコの協力を得て、世界中から集められた二億五千万ドル(約三百億円)の資金と十五年の歳月を通じ建設された。

 ここで、アレクサンダーやその4人の勇将の1人プトレマイオス(彼はアレクサンダーの遺体を一夜にしてバビロンからアレクサンドリアまで運び、大王の死後はエジプトを支配し、プトレマイオス王朝の祖となった。アレクサンダーの遺体は現在も見つかってはいないが、今もアレクサンドリアのどこかにあると信じられており、学者達の中には遺体探しに学者生命を賭けている者もおり、ガセネタでの遺体発見のニュースが3年に1回くらいは新聞を賑わしている。)やプトレマイオス王朝最後の王となったクレオパトラ7(彼女はエジプト人ではなくギリシャの血を受け継ぐギリシャ人です。)そしてその愛人であるローマの英雄シーザー(カエサル)等を偲び、半日過ごした。
 
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 ナイル河口のこの位置にアレクサンドリアはあり、そこのどこかにアレクサンダーの遺体は 眠っている。 興奮スルヨ  ↑


 プトレマイオスは文化に造詣が深く、当時の学者や芸術家を集めてムセイオン(自然科学の一大研究機関)をポンペイの柱のある場所に作り、ギリシャで食い詰めた学者や芸術家や詩人といった類の人たちを集め、彼等の生活のすべての面倒を見た。
 
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 プトレマイオス胸像   ↑

 このムセイオン(知の殿堂と言う意味)に集まった学者達の中から、ユークリットアルキメデスなどが誕生した。
 
 
 午後からサードザグルール広場からマスル駅まで歩き、かってムセイオンの建っていたポンペイの柱の立つ小高い丘へ向った。
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                            ポンペイの丘     ↑

 ここには高さ30mのアフリカで一番長い花崗岩の柱が1本立っている。かたわらには小さなスフィンクス。
 ポンペイの柱という名は、シーザーに滅ぼされたポンペイウスの首が柱頭にのっていたという怪奇伝説によるもの。
ポンペイの柱からカタコンベへはゆっくり歩いて7、8分の距離。
そこからカイトベイへはタクシーを利用した。
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                     タクシーからの風景    ↑

 この要塞は15世紀に造られたもので、元々この場所は世界の七不思議のひとつファロスの灯台があったことで有名、これは紀元前3世紀に造られた高さ135mの灯台だった。
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                     カイトベイ要塞の門 ↑

 ファロスの灯台は紀元前3世紀、プトレマイオスⅡ世の時代に建てられた巨大灯台。
 エジプト、アレクサンドリア港の湾口、ファロス島に立ち最上層では大理石の反射板の前で火が燃やされ、航路の目印として、夜間は数10Km先からでも見えたと言われている。
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                       ファロスの灯台想像図   ↑

 灯台の高さは、文献ごとにまちまちで、60mとも180mとも言われており、その構造や燃料の種類、管理の方法など、不明な点ばかりで、古代世界の七不思議の一つに数えられている。
 エジプト文明の最初の町アレクサンドリアだが、エジプト文明は謎に満ちた文明。

 
 


 アレクサンドリアに近いナイル河口の町ロゼッタ (別名ラシード)はロゼッタストーンで有名な町。
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                     ロゼッタストーン     ↑

 英語でロゼッタ・ストーンというと、解読することや翻訳、難問などの意味となる。
 ロゼッタ・ストーンは1799715日、ナポレオン・ボナパルトがエジプト遠征を行った際、フランス軍のピエール=フランソワ・ブシャール大尉によってエジプトの港湾都市ロゼッタで発見された。
この岩に書かれた文字を解読したのが今回のヒーロー、ジャン=フランソワ・シャンポリオンである。
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                  ジャン=フランソワ・シャンポリオン      ↑

 17998月,ナポレオンがエジプトを侵略したとき,ナイル川河口のロゼッタ村にある要塞の工事現場から,石碑の一部と思われる玄武岩が掘りだされた。発見地の名からロゼッタストーンと命名されたこの石は,高さ114cm,幅72cm,重さ762kg。黒く輝く岩肌には3層にわかれて異なる文字が刻まれていた。
 ロゼッタストーンの碑文は3層に分かれ、上から「ヒエログリフ」、「デモティック」および「ギリシャ文字」の順に文字が刻まれており、最下段の文字の内容は「紀元前196年のエジプト王,プトレマイオス5世の戴冠式の知らせ」で,すぐに解読出来た。
 だが、残りの「ヒエログリフ」、「デモティック」の解読にはこの古代文字の謎を解くには,20年の歳月とひとりの天才を待たねばならなかった。

 天才の名は、グルーノーブル大学(フランス)の若き教授ジャン・フランソワ・シャンポリオン(17901832)。
 シャンポリオンは,まず 音の解読から始めた。 ヒエログリフにはカルトゥーシュという楕円の枠で文字を囲むことがあるが,シャンポリオンはこれは王の名前だと考えた。そしてロゼッタストーンからプトレマイオス王のカルトゥーシュを,さらにフィラエ島で発見されたオベリスク(柱)から,女王クレオパトラのカルトゥーシュを見つけだした。
 この2つをくらべ,シャンポリオンはPTOLMIISとKLIOPADRAの文字のならび方からP,O ,L,Iの音を表すヒエログリフを見つけだした。

 この大発見をきっかけに,シャンポリオンはついにヒエログリフを解読する。ときに1922年,シャンポリオンは32歳だった。  
 この結果を手がかりに、他の古代文字文書も続々と解読されるきっかけとなった。
(
ロゼッタ・ストーンは1802年以降、イギリスのロンドンにある大英博物館で展示されている。)
 シャンポリオンは,ヒエログリフ解読の後も貴重な研究を続け,1831年にコレージュ・ド・フランスにエジプト学講座を開設するが,翌年,42歳の若さで世を去った。


ここで、シャンポリオンからあなたにチャレンジ。
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  これは、ヒエログラフ文字で、プトレマイオス(PTOLMIIS)と読みます。
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  これは、ヒエログラフ文字で、クレオパトラ(KLIOPADRA)と読みます。

では、ヒエログラフ文字でライオンマークはローマ字で何を意味するのでしょう。

 1; O   2; L  3; A    

 シャンポリオンはこんな文字を解いて20年を過ごした。あなたは10秒で回答デキマス・・・・キット

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                                 探検家リビングストンが発見したビクトリアの滝
                                (ジンバブエのザンベジ河畔の町、リビングストンにある) 
 

 ナイル河、「5大陸最長河川の旅」最後の河であり、世界最長の川である。
 その長さは6695km、アフリカ大陸の東側を、赤道直下から悠々と北上して流れ、地中海に注ぐ。
 ナイル河の源流については、プトレマイオスの時代では伝説の月の山(ルウェンゾリ山)とされていたが、現代ではタンザニアのビクトリア湖が源流とされている。
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                              月の山   ↑

 ただ、ビクトリア湖に流れ込む川が存在し、正しくは、ナイル川の最上流は、ブルンジのルヴィロンザ川の源流地ということになる。
 ビクトリア湖からはヴィクトリアナイルとして知られる。約500km下流に行くとキョーガ湖を経てアルバート湖に着く。
 アルバート湖からはアルバートナイルとして知られる。
 スーダンに入り、支流のバハルエルガザル川と合流する。そこからは白ナイル川とよばれる。

 白ナイル川はスーダンのハルツームで、エチオピアのタナ湖から流れてくる青ナイル川と合流する。
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ハルツーム市内の白ナイルと青ナイルの合流点↑

 エチオピア高原を流れる青ナイル川はナイル河のもう一つの源流である。
 
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               タナ湖畔の南側から注ぐ河川にある「青ナイルの滝」↑

 さらに、ハルツームから約300 km下流で、支流のアトバラ川と合流する。
 エジプトに入ると、アスワン・ハイ・ダムとそれによって出来たナセル湖がある。それからさらに北へ流れ、ルクソール、カイロを流れ、地中海に注ぐ。
 
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ナセル湖畔にあるラムセス2世建設のアブシンベル神殿 ↑


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             ナイル河口の街アレクサンドリアにある「カイトバイ城塞」↑

 アフリカ大陸は、面積は3030万平方キロメートルで、世界全体の22.3%を占め、人口は85000人で、世界人口比では13.7%を占め、53の独立国によって形成されている。

 アフリカというと、僕は最初にシュバイツアー博士や野口英世博士のことを思い出す。
 シュバイッアー博士は33歳までは自分のために、33歳からはひとのためにと生きようと心に決めていたという、この33歳とはキリストが十字架にかけられた年齢・・・・・。
 その意思に従い、アフリカの貧しい人々のための医療に自分の半生を捧げた人。

 野口博士は、ヨーロッパで蛇毒や梅毒の研究で成果を収めたあと、アフリカへ渡り黄熱病の研究を行い、志半ばで黄熱病に感染し、偉大な生涯を閉じた。

 ナイル源流を目指した探検家のリビングストンもキリスト教の洗礼を受けた医者だった。
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           ジンバブエのザンベジ河畔の町、リビングストンにあるリビングストン像↑

 覚悟を決めていなければ、アフリカはまともな人間の行けるところではなかった。

 アフリカはサハラ砂漠を境にして、北アフリカ(ホワイトアフリカ)と南アフリカ(ブラックアフリカ)に分かれる。
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 青がホワイトアフリカ、残りはブラックアフリカ(緑;西アフリカ、ピンク;中央アフリカ、オレンジ;東アフリカ、レッド;南アフリカ)↑

 北アフリカは地中海に接し、イスラムの文化圏に属し、エジプト文明の頃からヨーロッパ圏の文化の影響を受けて来た。
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                     北アフリカ第一の都市「カイロ」市内風景↑

 一方サハラ砂漠以南は、人類が発祥した(タンザニアのラエトリがそこ)にもかかわらず、広大な砂漠地帯と恐ろしい病原菌に覆われた湿原地帯に行く手を阻まれ、ヨーロッパ諸国からは「暗黒大陸」と銘々され、その全貌を知ることは困難だった。
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          最悪の白ナイル流域熱帯雨林地帯「サッド」病原菌の巣窟↑

 この北と南の平均寿命はおおよそ北では70才、南では4050歳といったところで、現代人にハビコル最悪のエイズウィルス感染者数は、世界合計患者数が4000万の時に、3000万はこのブラックアフリカ地域の患者だった。(2001年の統計)
 今でも暗黒度NO1といったアフリカのサハラ以南の旅もナイル河の旅では試みることになるが、エイズを始め、強敵ぞろいの対戦相手が行く手に立ちふさがり、リビングストンやスタンレー、時代を下り、シュバイッアーや野口英世の時代といくらも変わらない?旅となるのではと考えている。


 何時ものように河口からスタートということになるが、エジプト文明を考察しながらの前半の旅と、病原菌や猛獣と向かい合わせとなる後半の旅とでは、天国と地獄程の差があるように感じる。
 ただ、最悪の地を抜ければ、そこにはプトレマイオスの時代の憧れの山岳、月の山(ルウェンゾリ山)がそびえ、その後、人類発祥の地タンザニアの「ラエトリ」への寄り道も計画しているので、気分はいくらかは明るくなって来ている。
 いよいよアフリカ、ナイル河の旅の始まり。
 次回はアレキサンダー大王の創られたアレクサンドリアの街でお会いしましょう。でも、心は人類発祥の地、オルドバイ渓谷にあるよ。
 
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                 人類発祥の地、オルドバイ渓谷デス ↑

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                     市内の小公園「白鳥の湖」

 アストラハン(ロシア語:Астрахань アーストラハニ;Astrakhan)は、ロシア南部の都市でアストラハン州の州都。

 人口は502,800人(2004年)でカスピ海低地、ヴォルガ川下流域デルタに位置し、カスピ海岸からは約90km離れてる11の島から市街地は形成されており、
カスピ海で獲れるキャビアの加工地としても知られる。

 1月の平均気温は-10度、7月の平均気温は25度。市街はキーロフスキイ、ソヴィェーツキイ、レーニンスキイ、トルソフスキイの4つの地区に分けられている。
 
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                   アストラハンのクレムリン

 古くから東西の交易の要衝として栄えた。
 ここまでロシア平原を南下すると、もう中央アジアの領域に入る。
 東はカザフスタン、その向こうはモンゴルである。南はカスピ海からペルシャの地、西はグルジアやアルメニアのあるコーカサスの地である。

 アストラハンはチンギスカンの長子ジョチの子バトウがキプチャック汗国を築き、都と定めたサライに近く、キプチャック汗国の最重要港として栄えた。
 
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      レーニンの父、ウリヤノフ氏の家(彼はアストラハンの出身だった)

 その後、イヴァン4(イヴァン雷帝)やステンカ・ラージンの率いた軍勢にも占領されたことがある。
 ここはスラブ民族だけの土地ではなく、モンゴル人やトルコ人などが入り混じった民族の十字路なのである。
 
 アストラハンの名物と言えば、衣類はアストラカン毛皮、食い物は西瓜にキャビアというところであろう。
 アストラカン毛皮は、カスピ海に面したヴォルガ河口都市アストラハン地方原産の子羊の巻き毛の黒い毛皮で、非常に高価なものである。
 
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アストラカン毛皮で作った帽子

 コナン・ドイルの例のシャーロックホームズの「ボヘミアの醜聞」という事件の中で、フォン・クラム伯爵というボヘミアの貴族が着ていた豪華なダブルコートの襟についていたという話が出てくる。

 キャビアは(英語、フランス語:caviar;ロシア語:черная икраチョールナヤ・イクラー)はチョウザメの卵の塩漬け。トリュフやフォアグラと並び世界三大珍味の一つに数えられている。
 
イメージ 4                 トリュフです。美味しそうに見えないけど・・
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              フォアグラですが、美味しそうに見えますか?    
 おもな産地はロシアで、特にカスピ海とアムール川が有名だが、カスピ海はイランにも面しているため、イラン産のキャビアもよく知られている。
 ロマノフ王朝ではキャビアは饗宴の象徴で、惜しみなく振舞われたという。

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 しかし、庶民にとっては、帝政ロシアの貴族がこよなく愛したキャビアは大変な贅沢品で、それを食べることが出来るかどうかで階級が決まるほどの食べ物だった。

 あの有名な豪華客船タイタニック号の最後の晩餐会でも、キャビアはオードブルとして出ている。
 キャビアの次にサーモンのソテー、フォアグラを載せた牛ヒレ肉のステーキなどが出て、バニラアイスクリームと季節の果物の盛り合わせのデザートで終わったという。
 

 久遠(くおん)に轟(とどろ)くヴォルガの流れ
 目にこそ映えゆくステンカ・ラージンの船

 ペルシャの姫なり燃えたる唇(くち)と
 うつつに華やぐ宴が流る。

 
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 ここは、かつて「世界の半分」と呼ばれるほど繁栄した、ペルシャの古都「イスファーハン」のイマーム広場で、ペルシャの姫が沢山いた場所でもある。
 この歌の主人公ステンカ・ラージンは、ドン・コサックの指導者である。

 「コサック」とは「群を離れた者」という意味のトルコ系の言葉で、領主への隷属を嫌って、ロシア南部のドン川・ドニエプル川など大河の周辺辺境へ逃亡してきた農民たちのことで、漁業や海賊行為を生業としていた。(農業は余り行わなかった)
 ロシアの辺境に住む人たち(コサック)の盗賊行為は,その力が国外に向けられている限りロシアの国益とも一致することが多かったのか、ロシア政府はコサックをある程度自由に泳がせるような政策をとっていた。
 ラージンはドン・コサック(ドン川一帯に住んでいたコサック)の大部隊を率いて南に向かい、ペルシャの地方豪族を襲い、彼等の富や「戦利品」として豪族の娘を次々に獲物とした。
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 ロシアは17世紀前半までは彼等をある程度泳がせていたが、大国へと成長し、南方への領土拡大を強めるに連れ、コサックの自治体制を危険視し、これを崩そうとした。

 ステンカ・ラージンの乱は、ロシアがコサックへの締め付けを強め、コサックの掠奪行為を禁圧したことから起きた。貧しい農民を味方に加え、大国ロシアに反逆を起こした。
 1667年に海賊軍隊を率いてトルコ沿岸を略奪、1668年、ペルシア湾岸を襲撃、1670年、ドン地方を占拠、ついでアストラハン・サラトフを占領し、シンビルスクを包囲した。
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 しかし、その年の秋、反乱軍はシンビルスクで敗北し、ステンカ・ラージンは負傷、ドンに逃れたが、部下の裏切りに遭い、あえなく逮捕され、モスクワにて両手足切断の4つ裂きの刑で処刑された。

 ロシアの大地は雄大である。この地を、古くはバイキングに始まりジンギスカンの子孫達チムールステンカ・ラージンナポレオンヒトラー等の征服者が駆け抜けた。

 ボルガ河はロシアの魂とも言える川である。
 源流から河口まで、トベリ、ヤロスラブリ、カザン、ウリヤノフスク、ボルゴグラード、アストラハンと、ロシアの中核となる歴史のある街が次々と現れ、時間の壁を超え、ロシアという国の成り立ちを、垣間見せてくれた。
 河口はカスピ海に注ぎ、その海の向こうはペルシャである。
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             カスピ海の彼方のペルシャの地、イスファーハンの夕日です。
 
 井上靖 シルクロード詩集より 「カスピ海」

 鉛色の海が広がっている。海は渚に座って、七重になって寄せている波の音を聞いていた。

 どこか海とは違っている。もちろん川でもないし、と言って、水溜りであろう筈はない。

 青い空の下にふしぎな水域が広がっている。遠くに蝶鮫獲りの舟が一艘見える。

 
 yoshii  ボルガ紀行から 「ボルガの幻影」

 ロシアの祖となったバイキング達を真似、ボルガ源流から河口まで、3690kmを旅した。

 この河の畔にレーニンが生まれ、この河の畔で、スターリンとヒトラーが戦った。

 この河には、青き狼「チンギスカン」の気配もする。

 そして、ペルシャの姫を抱いたステンカラージンの雄たけびも、はっきりと聞こえるのだ。
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 カスピ海の対岸の地図です。アフリカももう少しだ・・・

 ボルガ河の旅は今回で終了です。長い間お付き合いいただき、ありがとうございました。
 
 
 yoshiiはこの後、最後の河であるナイル河を目指す。
 次回からもご来店ください!!
 

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