世界の最長河川中心に探険中!探険家よっしいのブログ

探険、冒険大好き人間、世界の最長河川中心に探険中! 探険・冒険大好き人間 中でもアンデス・アマゾンに惹かれる。 好きな食べ物はラーメンとカレー 好きな音楽はラテン

2017年10月

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                                          アマゾン河口、中洲がマラジョー島、↑


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 ベレンの街はこの島の南にあります。 

 河口の幅が東京ー名古屋間とほぼ同じで、その間にマラジョー島という九州とほぼ同じ面積の中州を抱えるアマゾン川。

 ベレンは、その大河アマゾン河口の街で、マラジョー島の南に位置する人口120万の大都市である。

 マンゴ並木が街を彩り、実が熟す雨期には街中がマンゴの香りで溢れるという。
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                                                              マンゴ並木です。↑

 ベレンの歴史は、大航海時代の1616年、ポルトガルがこの地に要塞を築いたことに始まる。
 しかし、それ以前から、先住インディオたちはこの地で独自の文化を築いてきた。

 ベレンは、移民文化が先住民文化を飲み込むというブラジルの典型パターンにはまらない、西洋文化と先住インディオ文化とが矛盾せずに混在する街として有名。

 この地はアマゾンの食文化の中心地としての顔も持っており、ここではインディオ起源の郷土料理を二つほど紹介する。

 ベレンは午後になると、街にタカカの屋台が出る。

 これが不思議な食べ物で、有毒マニオクの汁を煮詰めて唐辛子を漬け込んだトゥクピを入れて煮込んだマンジョーカのくず湯のスープに、干し蝦とジャンブーという葉っぱが入っているというもの。
 
 この葉っぱを食べると、舌はもちろん口の中全てがジーンとしびれ、一度食べると病みつきになるという。
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                                                                タカカです。↑


 ベレンにはもう一つ、マニコバという郷土料理がある。
 
 マニオクの新芽を3日間、葉っぱなら1週間、どろどろになるまで煮込んで、牛の髄や舌、豚の頭や腸詰め、ニンニク、タマネギ、香辛料を入れてぐつぐつと煮込んだものだ。
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                                                            マニコバです。↑

 緑色のカレーといったところで、これをカレーのようにご飯にかけて食う。
 こってりして美味く、一皿でアマゾン河を泳いで渡れそうなほど精がつくとか。



 さて話しは変わって、僕はマラジョー島に渡り、カランゲージョ(泥ガニ)獲りとピラニア釣りに挑戦することにした。

 マラジョー島のマングローブ林は一帯が泥沼のような場所だ。その根元に穴を掘り、カランゲージョが生息している。
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                                                               マングローブの林 ↑

 地元の蟹獲りおじさんの指導で、僕は蚊避け用のタバコを口にくわえながら、右手を肩まで泥の中に突っ込み、親指を挟まれながらも元気なカランゲージョ(泥ガニ)を捕まえた。

 市場では、50セントくらいの値だがその美味しさは開高健も絶賛していたほどだ。

 何かの雑誌で読んだのだが、ベレンのカランゲージョ料理一筋のレストランの老経営者が、この蟹の美味さを、どんな若い女の子より美味いと表現していたのを記憶している。(絶対食べてみたいね。)
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                             カランゲージョ 1匹50セント 全部で30ドルくらいかな?

 次に、ここでの最大の目標であるピラニア釣りへの挑戦のため、僕はマラジョー島のどこにでもある農場の脇を流れる、どこにでもある小さな小川に向った。

 ピラニアはアマゾンでは空気のように水のように、どこにでもいる魚で、川があればピラニアがいるというような程度の魚である。
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                                                ピラニア、歯が怖そうだね。 ↑

 ただ、それは酷く強暴だ、凶悪といってもいい。

 人間や家畜や野生動物が、この魚に簡単に餌食にされる。川岸で片手を川に入れ、うとうと昼寝をして、起きたら手の先が骨だけになっていた。
 
 ほんの数分の仕業で、その男はそれを見て気が狂って、自ら川に落ちて、あっという間に全身骨だけになったという話しが、開高健の「オーパ」の中に書かれていた。

 ピラニアのエピソードは、そんなのばかりである。

 マラジョー島のある牧場では年間1000頭を超える水牛がピラニアの被害に合うという話未開部族が死者を葬るのに、葬儀の間中死者を川に浸けて置き、死者の肉がピラニアに食い尽くされるまで食わすという話は、日本の国にすんでいる者には想像すらできないことである。

 ただ、ピラニアはそれでも、僕にとってはアマゾンを感じさせてくれるすばらしい魚の一つには違いなく、長年の思いを込めて、ピラニア釣りを敢行した。

 ピラニアは獰猛な魚である。興奮すればどんな生き物にも襲いかかり、あっという間に骨だけにしてしまう。僕は息を潜め、恐怖に震えながら、ピラニア釣りに挑んだ。

 そして数分後、僕は悪魔にも似た1匹を、しっかりこの手にした。 
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    ほっとしたね、無事ピラニアが釣れて(これは赤だぞ、ワイルドだぞ)  ↑
 
ここで、ピラニアに関する問題を出題、次のうちで、一番大きくなる
ピラニアは?
 
① プレタ(黒)
② ヴェルメーリョ(赤)
③ アマレロ(黄)
答えを書いてから、読後感想なども自由記載ください
 
 次回は、サンタレンの街からです、ではまた。

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  探険家列伝第2部は、世界5大陸(南北アメリカ、アジア、ヨーロッパ、アフリカ)最長河川に挑戦する旅である。

 関野吉晴は、グレートジャーニーの旅で、人類拡散の歴史を逆方向から再現する旅を10年間で
達成した。

 その旅は、南アメリカの最南端のナバリーノ島からアフリカのタンザニアのラエトリ(人類発祥の地とされている)までの壮大な旅となった。

 その関野の旅を真似て、南アメリカ大陸から、探険家列伝第2部の旅はスタートする。

 その最初の川は、アマゾン川である。 

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                                                           アマゾン河源流部  ↑

 
 アマゾン河、この川のあまりの偉大さに、しばし呆然とする。
  この川を目指すことが、僕のここ数年の夢であった。

 この河との出合いは、高校の図書室で偶然出合った開高健の名著「オーパ」から始まる。

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 その話は、読書日記の「開高健 オーパ」 に書いているが、それ以来、この河は僕の心を捉えて離さない貴重な川となった。

 初めに、アマゾン河の紹介を簡単にする。

 全長は6,516kmで、世界第1位のナイル河の6,695kmにつぎ、第2位の長誇っている。第3位の長江(揚子江)は6380kmである。

 アマゾン河の本流をペルーのマラニョン川とする説もあるが、インカ文明の真ん中を流れる同じくペルーのウカヤリ川(ウルバンバ川とアプリマク川が合流する。)を本流とする説をここではとっており、余裕で世界第2位の長い川となる。(マラニョン川本流説は270km短い。)
(河川資料は文部科学省国立天文台「理科年表」・国土交通省河川局水政課「河川管理統計」から抜粋。)

 流域面積705万平方kmはダントツの世界第1位で、第2位の370万平方kmのザイール川(アフリカ)を遙かに凌いでいる。

 年平均流量は、毎秒17万5000トンと推定され、ザイール川の4~5倍、全世界の川の流量の15~18%をしめるという想像を絶する膨大な流量を生み出す川である。

 また、全世界の淡水の3分の1が、この流域に集まっている。

 そんなアマゾン河だが、地球上の全水量に比すれば、ほんのわずかなものである。

 地球上の水の97%は海水で、淡水はその3%しかない。淡水のうち9割は凍っている。つまり、全水量の0.3%の淡水が液体として現象している。

 その淡水の4分の1はバイカル湖にある。その3分の1はアマゾン流域にある。

 こういうことで、アマゾン河に比べれば、他の川はほんとに可愛い川なのである。

 川は太古から人類の文明を育て、人の命の源である淡水を供給する重要な存在であったし、今でもその事実には何ら変わるところはない。

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                                                ネオネグロ川の熱帯雨林 ↑

 また、アマゾン河流域の熱帯雨林は、地球の全酸素の20%を生産する、地球の肺といわれる場所である。

 アマゾン熱帯雨林の面積は約480万km2。実に、全世界の熱帯雨林の54%を占めている。

 アマゾンの源流は、インカ文明を生み出した万年雪のアンデス山脈であり、その雪解けの水を集めて、やがて沢水になり小川になり、クスコ、マチュピチュ、ビルカバンバなどという世界遺産の地域を流れ、源流の川、アプリマク川やウルバンバ川となるのだ。

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                                                    クスコの街並みです。 ↑
 
 総延長6,516kmの旅は、今始まったばかり、僕はいつものように川の流れを逆方向から遡上する。

 アマゾン河口の街、ペレンあたりでは、雨季になると、アマゾン河の川幅は500kmにもなるという。

 まずこの街から、アマゾンの旅を始めたい。

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                                                           ベレンの魚市場 ↑

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                      カランゲージョという河口部でとれるカニ↑、開高さんも絶賛してた。


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                                                      ベレンの女たち  ↑

和倉温泉ではバスや電車でのアクセスに不便を感じながら、午後3時には七尾のホテルルートイン七尾東に帰った。
 ホテルの1階にある「旅人の湯」という小綺麗な大風呂で汗を流した後で、缶ビールを飲みながら5月場所の5日目を見た。
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 それから、昨日と同じくホテル内のレストランで、1000円で作ってもらった刺身定食を美味しくいただいた。
 この3日間、七尾を中心にその周辺の地を散策したが、日本海沿岸に面しているにも関わらず、海や山の風景がとても優しく感じられた。
 このような場所で生まれて、ここを故郷としている人たちを、とても羨ましく思った。
 明日からは、2泊3日のレンタカーを駆使しての能登半島の中心部分を一周する旅となる。
 いよいよ渤海の能登客院の有った地を訪ねることもあり、いろいろと楽しみで少々興奮して寝付きが悪かった。
 旅に出てからずっと晴れているが、5月19()も、朝から気持ちの良い晴天となった。
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 今日の日程であるが、まず志賀町の福浦港を目指して車を進めていく。
ここにはかって、能登客院があった。
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 まず、東海岸にある七尾から西海岸に向かってレンタカーを進めていく。
 慎重にドライブしながら能登半島中央部の丘陵地帯を越えて、西海岸の志賀町に出た。
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 福浦港へ行く前に、ここで「花のミュージアム フローリイ」に立ち寄った。
 能登はその風景の美しさから、映画のロケ地に頻繁に使われている。
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 ここ「花のミュージアムフローリイ」は、主人公級の三村みどり(俳優は釈由美子)の職場として、映画「リトル・マエストラ」の重要なロケ地となった。
 志賀町福浦や金沢市を舞台にしたこの映画は、原作が漫画である。
 実際にビデオで作品を見たが、朝ドラや紅白などで超有名女優となっている有村架純が主役となっている。
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 以下、「花のミュージアムフローリイ」の風景を見ながら、話の概略を記載していく。
過疎化や高齢化などで寂れていく日本海に面した小さな港町(福良港のある町)では、町民の楽しみであるアマチュアオーケストラが存在していたが、老指揮者吉川が急死した事により町の補助が打ち切られ、解散の危機に直面していた。
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メンバーの1人で音大出身のみどりは、老指揮者が孫娘・美咲は自分譲りの天才指揮者だと言っていたことを思い出し、彼女を呼んでオケの立て直しを図ったが・・・・・
実際は落ちこぼれ高校生だった美咲がオケの指揮を通じて成長し、オケのメンバーもそれぞれ成長していく姿を、美しい福良港と威風堂々(イギリスの作曲家エドワード・エルガーが作曲した管弦楽のための行進曲集)のBGMをバックに綴られていく物語。
ここ「花のミュージアムフローリイ」を見学して、福浦港へ行く準備はすべて整った。
 

日中なのに、零下4度とのこと。
 
 
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 景福宮は厳寒の様相を呈していた。
 
 李氏朝鮮の開祖李成桂1392年に開城で王に即位、その2年後の1394 年に
漢陽(漢城、現在のソウル)への遷都を決定。
 
 無学大師の風水に基づき漢江の北、北岳山の南にあたる「陽」の地が選ばれ、李成桂が
開城で政務を執っている間から王宮の建設が始まった。
 
 鄭道伝によって「景福宮」と命名され、1395 年から李氏朝鮮の正宮として使用された。
 
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 宮殿の正面は光化門だが、ここは興礼門(弘礼門)である。
 この前で、観光客のため、衛兵の交代式が取り行なわれていた。
 
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 1910年、韓国併合条約により大韓民国の統治が終了すると、王宮としての役割をなくした景福宮に代わり朝鮮統治を後継した朝鮮総督府の庁舎の建設が景福宮敷地で1912年から始まり、1925年に完成した。
 
 これらは日本統治時代に敷地内の建物の8割以上が破却された。また光化門は正面から移設された。
 
 この結果、宮殿は正面から見えなくなった。
 李氏朝鮮以来の景福宮の景観変化と敷地への朝鮮総督府庁舎建設は独立後の韓国人にとって歴史的屈辱の象徴とされている。

結局1時間半も迷いに迷って、ようやく滋賀県蒲生郡日野町小野にある鬼室神社(鬼室集斯の墓)に到着した。
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ここに来るのにこれだけ苦労したので、目的地到着の喜びが何倍にも増した。
鬼室集斯はこの旅の中では特別な人である。
朝鮮民族と日本民族は、古い時代からそれぞれの国を離れて異国の地に移り住んで、異国の国のために沢山の方々が働いていた。

 日本民族の方はここでは省略するが、百済が滅んだ時代に日本の国のために働いた方が鬼室集斯である。
 鬼室集斯は日本の古代史上では大変重要な戦いであった白村江の戦いの敗残者で、その後日本に亡命した百済人である。

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 白村江の戦いとは、663(天智2)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、

 倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争のことである。
 戦いの結末は、唐・新羅軍の圧勝に終わり、百済につぎ668年に高句麗を滅ぼした新羅(統一新羅)の時代となっていく。

この時代の大和の国のリーダーである天智天皇にとっては、この敗戦は大化の改新以来進めてきた改革路線の最大の危機となり、結果的には天智天皇路線は壬申の乱により滅びさり、天武天皇の時代へ継承される。
 白村江の戦いは大敗し、百済復興は成らなかったが、日本は百済人をそのまま見捨てはせず、この戦争後、大勢の百済難民が日本に移住した。

鬼室集斯もその一人である。

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 司馬遼太郎の「韓のくに紀行」の最終章は「近江の鬼室集斯」というタイトルで、朝鮮から日本に亡命して日本の国造りに貢献した鬼室集斯を中心に書かれている。
 亡国となった百済、その万を超える百済人たちが日本に移住して来たが、「韓のくに紀行」によ
れば、一般人は北九州や山陰あたりに住んだのかもしれないが、鬼室集斯のような百済の王族は、天智天皇とその取り巻きが直接世話をし、近江の蒲生野のあたりに住まわせたと記載されている。

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 この時、鬼室集斯とともに佐平余自信という王族も一緒に来ており、天智朝廷は彼らを優遇し、鬼室集斯に小錦下の冠位を与えた。

 小錦下はのちの従五位下に相当し、当時としては大層な位階だったという。
 天智朝は白村江の戦いに敗れて後、常に唐と新羅から攻撃されるのではないかと怯え続けていたので、 国防施設を玄界灘や瀬戸内海の沿岸に築くとともに、百済難民を東国へ移住させ、都を奈良盆地の飛鳥から琵琶湖南端の近江宮へ移したりした。

また、強力な統一国家を早急に確立するため官僚養成を目的とする大学を作る必要があったので、鬼室集斯は百済人であったが、日本の国家的要請により日本最初の大学の総長となった。

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感動の鬼室神社境内を歩いて行くと、最初にこんな建物があった。
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 近づいてみると、集斯と書いてあった。
 近くに説明看板があったので読んでみた。
 ここは日野町と韓国ウルサン市の姉妹都市交流20周年を記念して整備した交流広場で、中央に位置する建物は休憩所。
この休憩所は鬼室神社の祭神であり姉妹都市交流のきっかけとなった鬼室集斯にちなんで、集斯亭と名付けられた。
曲線で構成された屋根や扇状の垂木、色鮮やかな丹青など韓国の古代様式を模していて、交流のシンボルとなっている。
これから、鬼室神社に入っていく。
 

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