世界の最長河川中心に探険中!探険家よっしいのブログ

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2018年04月

これから継体天皇の先祖の血を訪ねる旅に出るが、その場所は近江高島市である。
高島市内には、364を数える「埋蔵文化財」が存在しているが、その中に継体天皇関連遺跡も沢山含まれている。
ここ高島は、現天皇家の直接の祖先でヤマト王権の主要な血ともなった継体天皇の、祖先やその妃となった人々の住んでいた地である。
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継体天皇関連遺跡だけでも数多く存在していて見所が多いので、この旅では赤字Aの鴨稲荷山古墳周辺と、赤字Bの彦主人王墓周辺の2ケ所を見ることにした。
まず、赤字Aの高島歴史民俗資料館を目指して30分程レンタカーを走らせた。
高島歴史民俗資料館は滋賀県指定史跡となっている鴨稲荷山古墳の近くに昭和5610月に開館した。
さっそく中に入った。
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高島が継体天皇(大王)ゆかりの地ということで、現在は既にその痕跡すらない墳丘長約50メートルほどの前方後円墳であったと推定される鴨稲荷山古墳の模型や、継体天皇の父親である彦主人王の墓とされている田中王塚古墳に関連する写真などが展示されていた。
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このスペースでは右方に、1902年の県道改修工事に伴って発見され掘り出された家形石棺が写っている展示パネルが置かれ、左方に副葬品として発掘された復元宝冠と飾履が置かれていた。
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復元宝冠と飾履はまことに豪華で、出土したこれらの副葬品から朝鮮半島との強い交流が見られ、墓の被葬者はこのあたりを支配し継体天皇を支えた三尾君(三尾氏)首長の墓であると推定されている。
三尾氏は継体の父や継体に姫を差し出した古代豪族であった。
現在これらの副葬品の本物は東京国立博物館に保存されており、家形石棺は現地の覆屋内で保存されている。
これから、家形石棺の置いてある鴨稲荷山古墳跡地を見に行く。
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ここが高島歴史民俗資料館のすぐ隣にある鴨稲荷山古墳跡地である。
細長く石の積まれた後ろのスペース全体が鴨稲荷山古墳跡地で、ここに現在は既にその痕跡すらない墳丘長約50メートルほどの前方後円墳があった。
家形石棺はプレハブの建家の中に入っているという。
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プレハブの中を覗くと、かっては豪華な副葬品が詰まっていた家形石棺が置かれていた。
残念ながら直接この中に入れなかったが、大王級の方の重厚な気配だけは少しではあるが感じることが出来た。
大王級の方の眠っている近くで、コンビニで買った1000円もしない上生寿司を食べて、それが庶民である僕の贅沢な昼食となった。
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次の目的地へ向かうために鴨川を渡る時、ここに架かる橋の名が天皇橋となっていることに気づいた。
もとは天王橋と呼ばれていて、鴨稲荷山古墳の発見後に継体天皇ゆかりの地の意味を込めて、天皇橋と改称されたとのことである。
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天皇橋の高欄には、鴨稲荷山古墳出土の飾大刀に施されていた直弧文が飾られていた。
 

司馬遼太郎が「街道をゆく」で訪れた数多くの町、集落、土地の中で、最初の訪問地の地となったのが滋賀県大津市小松(当時は滋賀県滋賀郡志賀町小松)で、実際に訪れたところが北小松漁港である。
司馬の街道をゆくには、北小松の小松が高麗津だったかもしれないと、ここにも朝鮮半島の痕跡の地名を想像している。
僕の旅では北小松港には立ち寄らなかったが、朝鮮半島の痕跡を辿るような気持ちで北小松の町を歩いてみた。
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11月の北小松の町で目にとまったのが、たわわに実った柿の木と道路横の立派な石垣だった。
石垣や石積みの上手さは湖西の特徴で、付近には川はなくすべて暗渠になっていて、この石組みの上手さが朝鮮半島の血がここに流れてきた痕跡となっているという。
司馬がこの町を散策した頃は家々の軒は低く、紅殻格子が古び、厠の扉まで紅殻が塗られていたというが、そんな家を探して見たがこの時は見つからなかった。
そこで、道で出会ったこの辺りに住む少年に案内してもらって琵琶湖に出て、この辺りからの琵琶湖風景をながめた。
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湖面にはエリ漁(定置網漁業)の仕掛けがされていて、小鮎、ワカサギ、イサザ等が漁れる。
仕掛けの向こうに集落が見えるがどうやらそこが北小松港で、戦前には40艘程の漁船が活躍していたというが、司馬がここを訪れた頃には5艘になっていたという。
北小松の次に、ここからほど近い距離にある白鬚神社に行った。
白鬚神社は滋賀県高島市鵜川にある神社で、全国にある白鬚神社の総本社とされ、沖島を背景として琵琶湖畔に鳥居を浮かべていることから、「近江の厳島」とも称されている。
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白鬚神社は、垂仁天皇(11)25年に倭姫命によって社殿が建てられたのが社の創建であると社殿では伝えられている。
司馬は、白鬚神社は新羅神社ではないかと、これも朝鮮半島の血の痕跡の一つだと考える。
楽浪の滋賀は渡来人が多く住んでいた地で、近江と同じく白鬚信仰の多く分布する武蔵国北部や筑前にもやはり渡来人が多く住んでいて、その人たちの建てた神社が祖先の地を示す名である新羅神社であり、やがて白鬚神社となったものと思われる。
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神社の境内を一通り散策して、琵琶湖畔に悠然と浮かんでいる鳥居を見ることにした。
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これからトラックなどがひっきりなしに通る神社の前の西近江路を、この勇敢な家族の後に続いて横断を試みるのである。
桓武天皇の時代、近畿地方には日本の人口の3割に当たる渡来人が住んでいたと言われ、この楽浪の滋賀の地も同じような状態だったと思われる。
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渡来人はきっと勇気を出して海を渡れば、この鳥居のように美しい日本の地?に渡れると心を決めて冒険の海に出たのだろう。
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そして、渡来人のように勇敢な家族は海の中の鳥居を目標に西近江路に飛び出し、僕もすぐ後を追った。
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渡来人のように勇敢な冒険者だけに許されたこの旅一の絶景を背景に、ここで記念の1枚を勇敢な家族の奥様から撮ってもらった。
 

第3章 ロシア

 
「東洋人の皮をかぶった西洋人」の国「ロシア」

 一般的にはルーシの時代からロシアという国が始まったと考えられている。
そのロシアが周辺の国々を従えてソ連体制を築いたのが1917年、この時ソ連(ロシア)の版図は歴史上で最大になり、事実上は世界の国の半分を支配していた。

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 このソ連(ロシア)に参加した国々は、15共和国を数える。

 中央アジアでは、ウズベク共和国、タジク共和国、キルギス共和国、トルクメン共和国、カザフ共和国。


 コーカサス地方では、グルジア共和国、アゼルバイジャン共和国、アルメニア共和国。

 東ヨーロッパでは、ウクライナ共和国、ホワイトロシア共和国、モルダビア共和国。

 そして、北欧バルト海では、エストリア共和国、ラトビア共和国、リトワニア共和国である。

 この歴史上でも稀な程の政治的・軍事的な強国となったロシアが、アジア人種(朝青龍や白鵬の先祖であるチンギス・カンのモンゴル人)に支配されていた時代があった。

 そして、その歴史的事実が、「東洋人の皮をかぶった西洋人」と言われるロシア人の国民性を作る事になろうとは・・・・。

 結論から言えば、ロシアは、チンギス汗の果せなかった世界征服の野望を、近代的生産力と共産主義の力で果そうとした国である。

 ロシア人は20世紀初頭に、世界に先駆け、モンゴル帝国にも似た「ソビエト社会主義共和国連邦」という大共産主義国家を生み出した国。

 ロマノフ王朝時代のロシア
シベリア平原をし、太平洋(ベーリング海やオホーツク海を含む)に到達したが、その300年も前に、手本としたチンギス・ハンを始祖とするモンゴル帝国は、シベリア平原の南に位置する中央アジア高原を西進し、ルーシの国々に攻め入った。

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 ロシアの大地はアジアの平原と地続きだが、モンゴル人が初めてロシアの大地に出現したのは1223年のこと、中央アジアのホラズム帝国征服の一環としてルーシにまで遠征した。ホラズム・シャー朝(ぺルシア語: خوارزم شاه Khwārazm Shāh);、アム川下流域ホラズムの地方政権として起こり、モンゴル帝国によって滅ぼされるまでに中央アジアからイラン高原に至る広大な領域支配を達成したイスラム王朝) 

 シルクロードの入り口で陣取る西夏を征服中に、チンギス・カンは1227年秋に66歳の生涯を終えた。
(西夏;7世紀~13世紀ごろに中国西北の四川省北部・青海省などで活動したチベット系民族タングートの建てた国。前身は周の文王に協力して殷打倒に大功を上げた姜(チャン)族、羌は古代より中国北西部の青海で遊牧生活を営んでいた。その「羌」字の象形は、牧羊する人を指していと言われる。
 2008年の四川大地震で激しい被害を受け、姜族の文化は保護復興事業の対象にされている。
 作家の井上靖氏はこの姜がお気に入りで彼の小説や詩には頻繁に登場する。)

 その後モンゴル帝国は、彼の長男ジョチの次男バトゥを総司令官とする大規模な西方遠征軍を派遣し、1240年代にはほぼ全ルーシを制圧し、モンゴル帝国の支配下とした。

 バトゥを家長とするジョチ家の所領はカザフ草原から黒海沿岸低地にいたる広大なキプチャク草原にまで拡大した。

 ジョチ家の所領(ジョチ・ウルス)はこの後次第に緩やかな連邦に傾斜していく帝国内での自立性を強めたため、キプチャク・ハン国とも呼ばれる。

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 モンゴル人は遊牧民の方法でロシアを支配した。

 彼らはロシア人を家畜の地位に置き、モスクワ大公ほかルーシの大公をシェパードとして使い、ロシア人から税金を搾り取った

 この支配構造と図式は、その後もロシアの支配者に受け継がれ、結果として良かったのか悪かったのかしらないが、とうとう20世紀に「ソビエト社会主義共和国連邦」を実現した。

ここで、質問です。

あなたは、次の世界征服者のうち、誰が一番好きですか?その理由も書いてね。

①  アレキサンダー大王
②  チンギス・カン
③  ナポレオン

113()4日目の朝となった。
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3日間寝泊まりしたこの部屋と、名残惜しいが今朝でお別れである。
化物たちが宴会でもしているような感じがしたのは最初の一日だけで、他の日は恨んでいるような感じの妖怪が常時取り付いているようだったが、極端な悪さはしなかった。
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ホテルの食堂で、見た目が良くて味もなかなかの朝食を済ませ、午前8時20分頃にはビジネスホテル西大津を出た。
今日はレンタカーを使用して、湖西から湖北までの琵琶湖畔をほぼ半周する。
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今日の日程は継体天皇の先祖の血を訪ねることと、この「近江街道の旅」の最も重要な目的である、朝鮮半島を南下して大量に滴り落ち最も有力な日本人の血液となった渡来人の痕跡にたどり着くことである。
僕が泊まっていた西大津は滋賀郡に属しているが、古来滋賀郡は「楽浪(さざなみ)の志賀」と呼ばれ古墳の宝庫となっており、しかもその全てが朝鮮式だという。
上代このあたりを開拓して一大勢力をなしていたのが、朝鮮半島からの渡来人であり、彼らはこの地に朝鮮半島から先進文化や先進技術を持って来た。
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そんなことを考えながら、大津京駅から見える「楽浪の志賀」の風景に見入った。
大津京駅から10分程電車に乗り、四駅先の堅田駅に降車した。
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この堅田駅から東に200m程歩いて、トヨタレンタリース堅田店に到着、そこで純白のトヨタビッツをレンタルして「楽浪の志賀」の地をのんびり走っていく。
走りながら最澄のことを考えている。
最澄は、後漢の考献帝の子孫を祖先とする弥生時代の渡来人の7代目にあたると伝承されていて、三津首百枝の子として比叡山麓の古市郷(大津市坂本本町)に生誕した。
渡来系の氏族には先祖を古い家系や有力氏族に繋げる家系の創作が多く見られるが、最澄の家系が考献帝の子孫かどうかの事実関係は誰にもわからない。
最澄の家系は中国系ではなく新羅系ではないかという説もある。
しかし彼が、朝鮮半島を南下して大量に滴り落ち最も有力な日本人の血液となった渡来人の末裔であることだけは、そのことだけは事実のようである。
比叡山を旅しながら、旅の最も重要な目的を達成していることに、この時初めて気がついた。
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西近江路を40分程走って、最初の目的地である北小松に到着、北小松駅にレンタカーを留めた。
 

滋賀院の裏手に天海(慈眼大師)の廟所である慈眼堂がある。
慈眼大師天海は徳川家康・秀忠・家光の時代に幕府の顧問として遇された大僧侶である。
織田信長の叡山焼打ちにより全山焼土と化した比叡山の復古に尽力したことにより、家光の命で慈眼堂が建立された。
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慈眼堂の境内に入ったが、雰囲気はこんな感じの場所である。
ところで、信長の叡山焼き討ちについては諸説あるようである。
この戦いで織田信長は僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとく刎ねたと言われ、戦いでの死者は、「信長公記」では数千人、ルイス・フロイスの書簡では約1500人、「言継卿記」には3,000-4,000名と記されている。
しかし近年の発掘調査から、根本中堂と大講堂を除く施設の多くは叡山焼打ち以前に廃絶していた可能性が指摘されていて、実際に全山焼き討ちのようなことが起こったか疑問視されているのである。
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境内には天海によって高島市から当地に移された鵜川四十八体石仏のうちの13体の阿弥陀如来座像のほか、歴代天台座主の墓がある。
他に桓武天皇の御骨塔、慈眼大師供養塔、後陽成天皇供養塔、後水尾天皇供養塔、徳川家康供養塔がある。
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面白く思ったのは、正面の供養塔の裏に、一条天皇時代に栄華を誇った女流宮廷歌人達の供養塔があったことである。
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右から紫式部供養塔、和泉式部供養塔、清少納言供養塔と仲良く並んで立っていた。
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日吉大社を見て、鶴喜そばで昼食とし、慈眼堂の境内を散策した。
次に、日吉東照宮に行った。
日吉東照宮は坂本の比叡山東麓に鎮座する神社で、天海により1623年に創建されており、重要文化財の社殿は権現造の発祥とされ、関西の日光とも呼ばれている。
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ここは唐門で重要文化財となっており、社殿本殿同様、漆塗り・極彩色の彫刻で装飾されている。
比叡山延暦寺は平安時代初頭に最澄により誕生した。
慈眼堂や日吉東照宮を見て歩いていると、江戸時代にも延暦寺は徳川家の手厚い加護のもとで順調な成長を果たしたようである。
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日吉東照宮の境内からは坂本の街が広がり、その向こうに琵琶湖がくっきりと見えた。

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