世界の最長河川中心に探険中!探険家よっしいのブログ

探険、冒険大好き人間、世界の最長河川中心に探険中! 探険・冒険大好き人間 中でもアンデス・アマゾンに惹かれる。 好きな食べ物はラーメンとカレー 好きな音楽はラテン

2018年06月

「能登(日本道)への道」は2017年5月16日から始まった。
この頃の旅は日本の国の中では一部の地域を除いてほぼ好転に恵まれるので、安心して旅に出れるが、1週間予報で雨の日が無くても、一応の用心として雨具や傘はリュックに入れて、旅に出発した。
靴もいつもの履き慣れた靴を今回はやめて、主に肉体労働をする人たちのための商品を扱っている店から安くて丈夫な靴を買って、それを履いて旅に出た。
旅に出る前はいつものことだが、かなり綿密に持参する衣類・道具類チェックを欠かさず行っている。
そして、いつものことだが、結局全く使用しなかった品々をリュックに沢山詰め込んでしまうので、リュックはパンパンに膨れあがってしまっていた。
イメージ 1
この重いリュックを背負い、石川さゆりの「能登半島」を口ずさみながら、出発駅に向かっていた。
イメージ 2
夜明け間近、北の海は波も荒く、心細い旅の女泣かせるよう・・・・・19半ばの恋知らず、19半ばで恋をして、あなた、あなた訪ねてゆく旅は、夏から秋への能登半島・・・。
この歌を何回か繰り返している内に駅に到着、しばらく待って特急とは名ばかりのしらゆき号に乗り込んだ。
 朝食は自宅前のコンビニで買った麻婆丼ほかで673円で済ませ、電車の中でのんびり食べた。
イメージ 3
 新潟から七尾まで4時間半ほどで行く予定だったが、七尾線で事故があったため、1215分到着のところ結局5時間ほど掛かって、特急かがり火号は1245分頃に七尾駅に到着した。
 七尾駅から能登半島の旅を始めてゆく。
 まず、今回の旅の日程を紹介する。
イメージ 4
イメージ 5
こんな日程の1週間の旅である。
能登半島は国定公園となっており、併せて世界農業遺産にもなっていることから、旅の前から美しい日本を代表するような風景に出会えることを期待してしまう。
宿泊予定のホテルに重いリュックを預け、ディバック一つを持って七尾の街に出た。
まず昼食であるが、駅前の定食喫茶で、野菜や海老などの天ぷらが山盛りの天ざるを何と600円で食べさせてもらった。(すごく儲けたような気がして、さい先の良いスタートとなった。)
 

村上島之丞1764-1808年)は、本名を秦檍丸という。
18世紀の中頃伊勢の神職の子として生まれ、寛政の改革の立役者である松平定信に見出されて数回に及び蝦夷地の探検を行なった北方探検家の一人である。

イメージ 1

彼は探検家としても名高いが、地理学や風俗学に長じており、また文章や絵画にも優れた才能を持っていたため、蝦夷地や特に彼の居住地となった函館についての見聞をその著書に著し、後世に残る貴重な資料となっている。
島之丞の業績や足跡を見ると、島之丞より10年早いがほぼ同じ時代に生まれた菅江真澄のことを思い出す。
菅江真澄(1754年〜1829年)は30歳から始めた約46年の旅人生の中で、まず東北(出羽・陸奥、下北・津軽)や蝦夷地(渡島半島程度)18年間歩き廻り、後半の28年を秋田で過ごし、秋田領内をくまなく歩き、秋田領内で没した。

イメージ 2

彼は、「菅江真澄遊覧記」と総称される旅日記を書いたほか、随筆や秋田藩の地誌なども著し、200冊以上に及ぶ著作のうち7712帖が国の重要文化財に指定されている。
話を村上島之丞に戻す。
島之丞は江戸湾や伊豆方面の測量・地図作成に参加したのがきっかけで、1798年に江戸幕府の命令で、近藤重蔵らとともに蝦夷地の探索員としてクナシリ・エトロフ島まで出かけた。
この年から10年間、島之丞はこの地で活躍し数々の業績をあげている。
彼の残した業績を区分けして見ていく。
業績の第一は、蝦夷地往来の見聞を「蝦夷見聞記」「蝦夷島奇観」「東蝦夷地名考」「蝦夷産業図説」等に著わしたことである。

イメージ 3

アイヌの生活を観察して書かれたこれらの書は、現在もアイヌの習俗を知る貴重な資料となっている。
この中でとくに「蝦夷島奇観」およびその付録には、箱館の全景、亀田番所、市街図、風俗、尻沢辺出土の土石器など寛政年間の箱館が詳細に記録されていて、往時を知る唯一の資料とされている。
板碑(貞治)の碑も、彼によって再発見され「蝦夷嶋奇観」などで紹介された。

イメージ 4

板碑(貞治)の碑は1752年に函館大町の榊伝四郎が井戸掘りの際に発見した安山岩製の板碑(板石塔婆)で、同時に出土した頭蓋骨を収めた丹塗の小箱や鐙の金具や九曜紋入りの刀の鍔などを合わせて、称名寺に納め供養されていたもの。
碑面には、一般的にみられる梵字の種子の代わりに、右に「阿弥陀如来礼拝図」左に「阿弥陀如来来迎図」の画像が刻まれ、碑文として「貞治六年丁未二月日且那道阿慈父悲母同尼公」と記されている。
この碑文にある「貞治」の年号は、南北朝時代の北朝のもので、「貞治六年」は南朝の後村上天皇の1367年にあたる。
板碑は、鎌倉から室町にかけて多く製作された死者の追善供養のための塔婆であり、本州では主に寺院や街道に建てられているが、北朝年号のある板碑が何故蝦夷地へ運ばれ埋められていたのかは不明とのこと。
北海道最古の金石文として貴重な歴史資料であり、道有形文化財に指定されている。

イメージ 5

業績の第二は、住み着いた函舘付近の住民に対して直接に農耕の指導や植林、椎茸の栽培などの指導まで行っていたことである。
「男子たるものの志」を果たし、アイヌに対して量秤の統一などを指示し、作物の栽培法などを指導した最上徳内級の人物である。
業績の第三は、測量の力量を十分に発揮し、優秀な人材を育てたことである。
測量関係の書では「函舘表よりヲシャマンベ迄里程調」「蝦夷値の図」などの本を出し、またアイヌ語地名の研究にもすばらしいものを遺している。
島之允の門弟では間宮林蔵が特に有名で、彼はカラフトを含む蝦夷図の作成に大きな業績をあげている。
また養子となった村上貞助は、あのゴローニンからロシア語をいとも簡単に習ったり、林蔵口述の「北夷分界余話」と「東韃地方紀行」を編集したり、その天分を遺憾なく発揮した。

今、「鏡花のみち」を歩いている。
イメージ 1
「鏡花のみち」天神橋から中の橋の左岸にある約600mの道で、ここは浅野川大橋のたもとに生まれた泉鏡花が幼い頃を過ごした場所である。
天神橋は「義血侠血」の舞台となった橋で、そこまで歩いてから再び「鏡花のみち」の中ほどにある梅ノ橋まで引き返した。
イメージ 2
この像は、梅ノ橋のたもとにある「義血侠血」のヒロイン「滝の白糸」である。
イメージ 3
この梅ノ橋を渡って、これから対岸の「ひがし茶屋街」に行く。
イメージ 4
梅ノ橋上から浅野川に架かる天神橋方向の風景を臨んでいるが、左手方向の丘陵地が卯辰山である。
「ひがし茶屋街」は観光客で賑わっていた。
イメージ 5
昼食場所をまず探したが、適当な場所がなかなか無くて、たまたま見つけた「金沢しつらえ」という店に飛び込んだ。
ここの2階の茶房やなぎ庵で、950円の三色盛麺を注文した。
イメージ 6
なかなか素敵な店のせいか中は込み合っていて、大分待たされてからこんな具合に盛られたうどんが出てきた。
イメージ 7
上から見るとこんな感じで、竹炭を練りこんだ真っ黒なうどん、香り高いほうじ茶うどん、抹茶うどんの三種盛りで豪華な品である。
とても美味しくいただいた。
ところで、この店は石川を代表する伝統工芸である金箔の会社である「箔一」の傘下にあるので、ここでは金沢の伝統工芸品を鑑賞することができる。
イメージ 8
ここは漆の間で、文字通り石川県の漆製品を展示している。
イメージ 9
ここは2階をつなぐ金箔の吊り橋で、ガラスの床材に金箔を敷き詰め、つり橋の両側もガラスとなっている。
イメージ 10
ここは金箔のテーブルと金箔の椅子がセットされた部屋である。
絢爛豪華という言葉は、「金沢しつらえ」のためにあるようなものである。
 

2017年春5月に旅した「能登(日本道)への道」2015年に旅した「越前と若狭の旅」に続く旅である。
この旅の途中で石川県を通過したが、能登へは行かずじまいであった。
まだ日本でなかった時代のことだが、今の福井県から新潟県に渡って、越国(こしのくに)と呼ばれた地域があった。
イメージ 1
 この上図で赤く塗られた広大な越国は、ヤマト王権の勢力が十分に及ばない日本海側の地域でありながら、朝鮮半島や大陸からの交通路になっていて、先進文化が栄えていた
 大和国から日本国となった律令時代に入ると、越国は分割されて越前国、加賀国、能登国、越中国、越後国に分割され、それぞれの国に国府がおかれた。
 今回の旅は古くは朝鮮半島や大陸からの交通路になっていて、それも表玄関とも言われていた能登半島への旅である。
イメージ 2
 能登半島は日本海に大きく突き出した地形をしており、古来から大陸や朝鮮半島から多くの者が、あるいは渡来者としてあるいは漂流者として、大和(日本)の表玄関である能登半島にやってきた。
彼らは能登半島の先端を見つけたとき「倭の島」とたぶん言ったのだろう、この「倭の島」が現在の輪島の語源とも言われている。
能登半島は特に朝鮮半島に栄えた高句麗や旧満州のあたりで栄えた渤海と交流があったところで、このことは旅の中でおいおい触れていきたいと考えている。
しかし、この旅の最大の興味の中心となっている渤海のことは旅の冒頭で触れておきたい。
イメージ 3
渤海(698年〜926)は、満洲から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方にかけて存在した国家で、高句麗の末裔の大祚栄により建国され周囲との交易で栄えた。
唐からは「海東の盛国」と呼ばれていて、統一新羅の8倍の大きさがあり、かっての高句麗の4倍の領土を誇った。
建国以後は唐や新羅の勢力を牽制する目的で日本への遣使を行い、日本側も渤海の使節を朝貢として扱って厚遇した。
この渤海の日本への海上交通は「日本道」とよばれていて、実はこの渤海の日本への海上ルートである「日本道」にあやかり、2017年春5月に旅した旅を「能登(日本道)への道」と名づけた。
たぶん僕の頭の中には、能登半島の旅の全行程に渡って、日本海を横断して日本と交流・交易していた渤海の昔日の姿が居座っていたのだ。
イメージ 4
その原因となったのは、この1枚の図である。
渤海のことを調べている内に、渤海使の日本海の横断航路図がかかれている図を、偶然ネットで発見した。
「渤海国使」は、秋~冬に来日して、春~夏に帰国しているというのである。
イメージ 5
その証拠写真(「気象衛星ひまわり」が捕えた「寒気」の吹き出しに伴う「雲」の写真)がこれで、秋から冬への北西の季節風に乗って日本海を横断してくるとは、まさに渡り鳥並の知恵と勇気のある人々だと、その日本海冒険の旅に果てしない勇気と限りないロマンを感じたので、それからの僕はしばらく渤海病になってしまった。
来る時はシベリアからの北西の季節風を利用し、帰る時は太平洋から吹き上げる南寄りの季節風を受けて、彼らは風まかせの「帆走航海」をしていたのである。
渤海使の旅に勇気を貰いながら、2017年春5月に旅した「能登(日本道)への道」をこれから進めていく。
 

「近江街道の旅」は今回が最終である。
ヤマト王権の直接の主要な血となった継体天皇の祖先やその妃となった人々の地を訪ね、日本人の血液のなかの有力な部分が朝鮮半島を南下して大量に滴り落ちてきた痕跡の一部にたどり着き、琵琶湖の周囲をほぼ一周することができたので、「近江街道の旅」は収穫の大きい旅となった。
予定では天智天皇陵や草津宿本陣など草津を見るつもりだったが、折からの発達した低気圧の影響で、午後から本格的な豪雨に見舞われたので、残っていた計画を中止した。
イメージ 1
瀬田唐橋をちらっと見てから、野州市近くの小篠原食堂で895円の定食を食べて昼食とした。
昼食後はますます雨が降り続く中、野洲市にある銅鐸博物館に行って展示物をさらっと見学して、午後の日程を終了した。
この博物館は、日本古代史の謎とされる銅鐸の解明に迫る日本初の歴史民俗博物館である。
野洲市で出土した大岩山銅鐸の展示を中心に、銅鐸の誕生から移り変わり、その鋳造方法などを紹介している。
イメージ 2
銅鐸は弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器で、紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって製作され使用された。
イメージ 3
使用目的は、当初は家畜の首などに付けて鈴のように使ったり、祭祀などで音を出して聞いたりしていたらしいが、その後は祭祀の時などに地面か祭殿の床に置かれて、直接信仰の対象としていたようである。
 弥生時代の集落の人々は、農作物の豊作や集落の人々の繁栄などを願って、1年の時々にこの銅鐸を取り出し、これを神として祭祀を行ったのである。
 ここを30分ほど見学して、ホテル近くのイーオンで土産を1万ほど購入して、宅配で自宅に送付した。
 夕食はイーオンで刺身や柿の葉寿司を購入して、ホテルに持ち帰って最後の晩餐とした。
イメージ 4
 ここは5泊した近江八幡ステーションホテルのフロントである。
 ここから近江路の様々な場所に出かけ、様々な感動に出会った。
イメージ 5
 この絵は食堂に飾ってあった、このホテルのオーナー夫人の描かれた絵とのこと。
イメージ 6
 食卓から見ると、正面の壁にこのように飾られている。
 そして、この食事が毎日変えずに食べた朝食セットである。
イメージ 7
 この食事を思い出す度に、これからは「近江街道の旅」を思い出すことになるだろう。
 旅で出会った全てのものと、旅で出会った全ての人に、この場を借りて感謝したい。
  감사합니다(カムサハムニダ);ありがとうございました。

↑このページのトップヘ