世界の最長河川中心に探険中!探険家よっしいのブログ

探険、冒険大好き人間、世界の最長河川中心に探険中! 探険・冒険大好き人間 中でもアンデス・アマゾンに惹かれる。 好きな食べ物はラーメンとカレー 好きな音楽はラテン

2018年09月

 このオアシスだが、砂丘に降った雨や雪が湧き水となって溢れ出しているもので、1年中あるわけではなく晩秋から春にかけて出現し、雨が少ない夏場は消えてしまうのである。
ところが今年は冬季間に90cmを超える雪が降ったために湧き水の量が多くなり、7月8月の記録的な猛暑の中でも、かなりの大きさのままで残っているとのこと。
イメージ 1

夏に珍しい光景を見られるので、なおのこと張り切って草の生い茂る草地を歩いていく。
イメージ 2

冬季間には水没しているだろう草地を歩いているが、草地の真ん中に1本の水路があり、どうやらこの流れがオアシスに湧き水を供給している流れのようである。
僕にはこの水路が、砂漠を流れてロブノールに水を供給しているタリム川に見えるのである。
イメージ 3

このタリム川の流れに沿って、草地の中をゆっくりと歩いていく。
タリム川の行きつくところには、夏季の猛暑の中でも僅かに水をたたえているロブノールのようなオアシスが出現する。
イメージ 4

水深も50cm以上はありそうで、この中に鮒や鯉を放せば、釣もできそうな感じである。
このオアシスのほとりで、一組の家族がオアシスの中に足を入れて遊んでいた。
イメージ 5

「水は冷たいですか」と聞いたら
「端はぬるいけど、真ん中は冷たい」という返事が返ってきた。
イメージ 6

オアシスにたどり着き、最初の目的を達成したので、次は二つ目の目標である「馬の背を登って砂丘の頂上部に到達する」ことにチャレンジする。
頂上部からの絶景が楽しみである。
 
 

音あり、↓クリックです!!
画像を小さくして読んでください。(音を聞きながらだと倍楽しめます!!)
 
 アマゾン河イキトスマラニョン川ウカヤリ川に分かれるとそのあと本流ウカヤリ川はペルー内陸部を南下し、ビルカバンバ山脈の北端で、ウルバンバ川アブリマック川に別れる。
イメージ 1

                                                        ウルバンバ川 ↑

 クスコはウルバンバ川の上流部に位置する町、そしてそこはアマゾンの源流地でもある。

 アマゾン河の旅は、今ようやく、アンデス文明の最後の華とも言える「インカ帝国」の都であったクスコの町に辿り着いた。
イメージ 2

                                                  クスコの町並み ↑

 クスコは標高3,360mの高地に位置する人口3万程の、この国では中程度の都市である。

 町の名前「クスコ」は、ケチュア語(Quechua)で、「へそ」を意味する。

 この町はタワンティン・スウユ(インカ帝国の正式名称)の首都であり、文化の中心であった。
イメージ 3

                                                  インカ時代の石畳  ↑

 アマゾン河の旅はとうとうここまで来た。正確ではないが、ここからアマゾンの河口部までは6000km位はあるだろう。

 アブリマック川の方がより長いので、真の源流地は、もう一つの川を遡らなくてはならない。

 この河の旅は、もうすぐ終わりとなる。そして、それを心置きなく終わらせるために、ここクスコでは「インカ帝国」の歴史を少しでも垣間見たいと考えた。

 「インカ帝国」について知るには丁度いい参考書がある。少し古く、古典とも言うべき本ではあるが。

 僕が大学へ入って間もない頃(暇に任せて古本屋あさりをしていた頃のことだが)、タイトルに惹かれて文庫本等を20冊ほど買ったことがあった。

 その中の1冊に、泉靖一「インカ帝国」という岩波新書本があった。

 泉靖一は、今は故人となっている有名な考古学者である。

 泉が中学3年の頃、彼の学校に「南米探検家」という肩書きの長いひげを生やした男が来て、講演会を開いた。

 その話しのあらすじは彼の記憶には残らなかった。しかし、「南米探検家」が話したアンデスの特異な自然と、そこに栄えたインカ帝国の哀しい末路だけは、彼の心にいつまでも残った。
イメージ 4

                                                  インカ時代の黄金のマスク ↑

 彼はその後、朝鮮の京城大学に進み、さらに東京大学の文化人類学の教授として教鞭を執ることになる。考古学者泉靖一の誕生である。

 泉靖一は、まさにインディ・ジョーンズのようだね。

 アンデスを探検したいという中学の頃に芽生えた夢は、その後、考古学者となることによって達成されたのだ。(彼のような学者に僕は憧れるね。)

 その彼の著書には、東京大学在職中にペルーやボリビアに滞在し、その後、東京大学アンデス学術調査団に加わり、三度に渡ってペルーに出かけたこと、北はエクアドルから南はチリまで3万kmをジープで走り、遺跡発掘等によりこの地の文化の調査を行なったことなどが詳しくまとめられていて、アンデス山中に結実したインカ帝国という実態が、僕の内部に残った。

 彼の著書は、僕が高校1年の時にペルー移民100周年事業として開催された「悠久の大インカ展」で、アブリマック川源流部近くにそびえるアンパト山の山頂付近の氷解の中から発見された、あのイケニエにされミイラとなった「美少女フワニータ」に出会った時以来の感動を、僕に与えた。
イメージ 5

                                            哀しみの美少女「フワニータ」  ↑

 フワニータは選ばれた女性の一人だった。インカ帝国では、10歳くらいになると国中の少女の品定をおこない、美しく身体の丈夫なものを選び、地方首都の尼僧院に送った。

 4年の間、彼女たちは作法と宗教紡績と料理、そしてチッチャ(この地方の酒、口に含んで醗酵させる。)のかもし方を学んだ。

 そして、時には彼女たちの中から、イケニエが選ばれた。フワニータは、そういう少女の一人である。イケニエになることは、この時代は名誉であった。

 イケニエにされない大多数の少女は、二回目の品定めにより選ばれると、皇帝から貴族へ側妻として献上された。

 他の少数の少女は、太陽の処女として、永遠の処女を守りつつ、太陽の神殿で働いた

 泉靖一の著作には、インカ帝国の政治や文化についても詳しく記述があり、高校時代に抱いていた疑問はすべて解決した。

 僕は、泉靖一の助けを借りながら、まず、クスコ近くにあるマチュピチュ遺跡から見てまわりたい。
イメージ 6

                                           マチュピチュ遺跡です。 ↑

しばらく歩いて行くと、「金沢くらしの博物館」がある。
金沢市内には多くのミュージアムがあるが、金沢の人たちの昔のくらしを紹介しているミュージアムが「金沢くらしの博物館」である。
イメージ 1

ここは旧制金沢第二中学校(戦後は紫錦台中学校)の旧校舎に整備された博物館で、1899年竣工の木造校舎をミュージアムとして活用している。
イメージ 2

博物館の建物の両翼と正面玄関には3つの尖った屋根が設けられており、地元では三尖塔校舎と呼ばれ親しまれていたという。
中に入ってみると、様々な金沢の昔の生活用具等が展示されている。
イメージ 3

イメージ 4

ここは、大人の着物と和傘を展示したコーナーである。
イメージ 5

ここには、昔の暖簾が展示されている。
イメージ 6

ほんの10分程見学して、馬坂と宝円寺に向かった。
イメージ 7

宝円寺は曹洞宗の寺院で、1583年に前田利家が創建した前田家代々の菩提寺である。
イメージ 8

ここは本堂であるが、御影堂は利家が伏見で徳川家康と会見した際に死を決して自画像と髪を埋めた場所であり、利家の葬儀もこの寺で行われた。
イメージ 9

この坂が馬坂である。
その昔、小立野台地の下の農民が小立野へ草刈りに行くのに馬を引いて上ったことからその名が付いたと伝えられている。
イメージ 10

六曲がり坂ともいわれるほどカーブが多く、曲がりくねった坂の途中には馬坂不動尊がある。
イメージ 11
坂途中から見える景色がとても良く、手前には金沢特有の黒瓦の街並みが見えている。
  




 
 
 

イメージ 1

 右上の赤丸がイキトスです。その下の二つに分かれている川の、上がマラニョン川、下がウカヤリ川です。  ↑

音あり、↓クリックです!!
画像を小さくして読んでください。(音を聞きながらだと倍楽しめます!!)

 イキトスは、ペルーの国土の60%を占める熱帯雨林のジャングルの中にポッンと築かれた、人口30万程の町である。

 そこはもう、モンゴロイドの末裔の住むペルーの国であり、僕ら東洋人にとってはどこか懐かしい、故郷に来たような思いを呼び起こす町でもある。
イメージ 2

                                                     イキトスの町です。↑


 ここへは陸路でいくことができず、アクセスは船か飛行機のみである。

 僕はマナウスからここまで飛行機を利用したが、アマゾン河口から3800kmも上流にある町である。

 まだ河幅は5kmはあり、水は茶色く濁って、ゆるやかにジャングルを流れている
イメージ 3

                                                 蛇行するアマゾン ↑

 イキトスに最初に外国人が入ったのは1700年代半ば、スペイン人の宣教師が布教活動を始めるためだった。だが、原住民の抵抗に合って、活動は困難を極めたという。

 ここもマナウスと同じ頃ゴム景気に湧いた町で、その頃、建てられた【CASA DEFIERRO】《鉄の家》がイキトスの中心のアルマス広場に残っている。
イメージ 4

                                                           鉄の家 ↑

 しかし、町には昔の面影はほとんど無く、現在この町を支えているのはジャングルツアーに代表される観光産業である。

 「グレートジャーニーの旅」を2002年に完結させた探検家関野吉晴は、ペルーアマゾン源流の原住民の村での生活から学んだ体験を、「原住民の知恵」という文庫本にまとめた。
イメージ 5
       
 源流とまではいかないが、ジャングルで生活する裸族と会い、そしてアマゾン河の主とも言える巨大魚「ピラルクーを釣のが、ここでの僕の目的である。

 イキトスはペルーアマゾン最初の町であり、周辺部には原住民の生活する村が点在している。

 そのイキトスで、僕は先住民の村を訪れた。アマゾン裸族「ボーラ族」の住むサン・アンドレス村である。


 彼らは普段は、高床式のこじんまりした家の中で民芸品を作っている。
 村人と世間話をしているとサン・アンドレス港にボートが着いた。


 村人全員、急いでそれまで着ていたTシャツを脱いで上半身裸になり、木の繊維でつくったスカートとパイチェ(ピラルクー)のうろこや鳥の羽でつくったアクセサリーを身につけ、顔に何本か線を描いた。

 そしてダンスが始まった。隣と無駄話をしてのやる気のないダンスだが、白人の観光客団体は喜んでカメラのシャッターを切り、ビデオを回す。
イメージ 1

                                                 ボーラ族のダンス ↑

 民芸品を買い観光客が帰ると、彼らは服を着て、普段の生活に戻る。彼らは今はもう裸族ではなく、観光地に働く従業員なのである。

 一番の仕事は、観光客の期待するボーラ族を演じる仕事で、2番目に民芸品を作る職人としての仕事がある。

 狩猟採取の暮らしはもう今はここにはなく、文明という名の毒にたっぷり漬かった現代社会人の顔がそこにあった。


 いよいよ次は、一億年前から生き続けている巨大魚「ピラルクー釣り」にチャレンジする。 
イメージ 6

                                                     ピラルクー  ↑

 アマゾンでピラニアの次に有名な魚と言えば、ピラルクーであろう。有鱗魚では世界最大で4m、200kgを越すものもあり、まさにアマゾン河の主である。

 開高健をアマゾンに招待したブラジル在住の小説家醍醐麻沙夫は、その著「アマゾン・クライマックス-巨大魚ピラルクーへの旅-」の中で、「一億年前の悠久の太古から生息していたという地上最大の淡水魚ピラルクー、私はいつか、それを釣ってみたいという夢にとりつかれた…そして、ピラルクー釣り最後の旅を終えたあともいまだに私はピラルクーのことを思うと熱くなって、ランニングや腕立て伏せをしたり、特注さおやルアーの設計図をひいたり、果てしない空想に時をついやする。ピラルクーは、今も一生追い続けるだけの価値のある魚であることに変わりない」と書いている。

 開高も醍醐も、ピラルクー釣りにチャレンジした。そして、ともに、いさぎよい敗北という結果になった。

 僕は、イキトスから2日かけてアマゾン河の支流ウカヤリ川に入り、そこから2日かけてさらに支流のパカヤ川に入った。

 ここは本当の意味で、手付かずのジャングルが残っており、生き物たちの楽園である。 
イメージ 7

 僕は、現地人のカヌーに乗り込み、支流から更に水路に入り、その奥に広がる湖を目指した。

 そこは、ワニもピラニアも相当数いる、典型的なこの辺りの湖だった。

 僕らは息を潜め、ピラルクーが息をするために上がってくる瞬間を待った。それは気の遠くなるような時間のあとだった。
 そして、その時が来た。 
イメージ 8

                      これは開高健の造ったピラルクー突きヤジリ参考モデルです。↑

 僕はモリを放ち、ピラルクーは瞬間大きく跳ね上がった。しかし、モリは空しく水面をえぐっただけだった。

 そして、もう二度とその場に、ピラルクーは現れなかった。

音あり、↓クリックです!!
画像を小さくして読んでください。(音を聞きながらだと倍楽しめます!!)

 
イメージ 1

 マナウスはアマゾン河口より1500キロ上流にあるアマゾナス州の州都である。このあたりでもアマゾンの河幅は10kmもある。

 地形的には、アマゾン本流のソリモンエス川と、最大の支流であるネグロ川の合流部北側に立地し、170万以上の人口を抱える、巨大都市である。

 1900年前後をピークとする未曾有の生ゴム景気の時代、一攫千金をねらう人々の欲望が渦巻くマナウスは、魔都と呼ばれた
 
 19世紀の後半、一人のイギリス人がジャングルの中にゴムの木を発見した(金鉱の発見に近い感覚)。
イメージ 2

                                  ゴムの木からゴムの汁を採取しているところ ↑

 それが発端で、マナウスには常軌を逸したほとんどパニックに近いゴムブームが起こった。1890年代半ばから1910年くらいまでの間、この町に、けた外れのゴム成金が輩出した。

 あり余るかねの使い道も成金趣味と言われるもので、彼らは生活上の嗜好品や贅沢品はすべて、ヨーロッパから輸入した。

 ゴム長者の奥さん方は、そのシルクのドレスや下着のクリーニングを、パリでやらせたというはなしが残っている。

 その象徴がオペラハウス「アマゾナス劇場」である。(魔都の夢の跡です。)
イメージ 3

                                                   アマゾナス劇場です。 ↑

 彼らは金にまかせてマナウスを、熱帯のパリにしようとこころみ、すべての資材をヨーロッパから輸入して、アマゾンのジャングルの真っ只中の町に、ヨーロッパの贅沢を建設し、快楽に浸った。

  僕は、アマゾナス劇場の見学を終えるとゆるやかな坂道を下って、小さな映画館に入った。そこではゴム長者の栄華を題材にした鬼才ヴェルナー・ヘルツォーク監督「フイッツカラルド」を上映中だった。
イメージ 4

                                               夜のアマゾナス劇場です。 ↑

 最高の状況設定の中で、1900年頃のアマゾンの栄華の物語を、魔都と呼ばれたマナウスの昔を、ゴム成金達を偲びながら数時間堪能した。


 マナウスは南緯3度に位置し、熱帯雨林気候特有の湿度が災いして、息苦しい感じの町である。

 田中光二著書「アマゾン漂流」の中で、この町の印象を、「熱湿の町、臭いの町」という言い方で表現している。

 アマゾンのジャングルのあちこちから食い詰めた農民たちがマナウスを目指してやって来る。そういう人たちを集めて、ファベイラ(貧民街)が成立する。
イメージ 5

                                               典型的なマナウスの貧民街 ↑

 どぶのようによどんだクリークの岸辺に、木切れやトタンやダンボール等利用できるものはなんでも利用した掘っ立て小屋が、びっしりと隙間も無いほどに建てられている。

 僕は、このファベイラ(貧民街)を歩きながら、本当の意味での、「熱湿の町、臭いの町」を味わった。

 垣根涼介「ワイルド ソウル」という小説には、希望を胸にアマゾンのマナウスから小船に乗り継ぎ、ジャプラ川の奥地のクロノイチという入植地で生活した12家族50人の地獄のような日々が描かれている。

 この50人のうち生き残ったのは、自分以外は全員死亡した3家族の、当時大人だった1人と子どもだった2人の計3人だけだった。

イメージ 6

                                                            ワイルド ソウル 上巻 ↑

 四季温和な風土で育った日本人が生きていくには、アマゾンはあまりに過酷で凶暴。

 「
ワイルドソウル」と同じような目に遭ったアマゾン入植者も、ファベイラ(貧民街)に流れ込んで来る

 最下層民として生きている元日本人入植者達に幸い有れ!と強く願った。


 マナウスほど、富裕層と貧困層の差が極端なところは珍しいが、この河の流域は多かれ少なかれ、似たり寄ったりである。

 ただ、
彼らは貧しくても底抜けに明るい。彼らの本性がアマゾン河のように野生的で逞しいからなのだろうか。(元日本人入植者達も、彼らと同じようにならなければ、たぶんここでは生き残れない・・・・・)

 そして、今回の釣りである。


 マナウスではツクナレ釣りが有名だが、既にサンタレンで釣り上げているので、僕は対象となる魚を大ナマズとした。それも魚体が黄金に輝く、ドラード(ゴールドキャット)を選んだ。
 
 開高健ドラドという全身が黄金色の鮭そっくりの「河の虎」と呼ばれている魚を釣り上げたが、この魚はアルゼンチンのパラナ川やパラグアイのパラグアイ川に生息しているので、ここでは釣れない。
イメージ 7

                                           開高健の釣り上げた、ドラドです。↑

 ドラード釣りの漁師の船に乗り、僕はコカコーラのような色で流れるネグロ川を下った。

 そのネグロ川とカフェオーレ色のソリモンエス川の合流点へ来ると、船頭は頭から川へ飛び込んで僕にも飛び込むように勧める。

 僕も衣類を脱ぎ捨て、船頭に続いて、コカコーラとカフェオーレの混じったれに飛び込んでしばらく泳いだ。
イメージ 8

                                             こんな感じの流れが続く。 ↑

 さて、これからだ、ドラード釣りは。

 本流を100kmほど下り、ドラード釣りのポイントへ出た。

 ドラード釣りはツクナレの切り身を使って、水深80mほどの底に近いところに生息するドラードを釣り上げる。大きさはマンサイズである。

 しかし、今回は残念ながら、この化け物は、僕らの手には落ちなかった。

 代わりに、船頭が以前釣り上げたピライーバの大物の写真を見せてくれた。
イメージ 9

                    ピライーバはアマゾンの大ナマズの中でも最大のシロモノである。↑

 アマゾンの流れは雄大で、まるで巨大ナマズのような魔都の夕焼けがまぶしかった。
イメージ 10

 ここでマナウス物知りクイズです。
 間違っているものが一つありますが、その番号を答えてください。読後感想もよろしくです!!
 ① 南緯:3度 06分 西経:60度 01分。アマゾン河の河口から約1500kmの内陸部にありなが    ら、海抜はわずか93mに過ぎない。
 ② 住民の内訳
    混血(約63.93%)、白人(31.88%)、黒人(2.43%)、その他(0.87%)、日系人はおよそ2万人  ③ マナウスの名前は、アマゾン地域に居住していたマナオス族が由来とされている。
    イヨイヨ次回は、ペルーに入ります。またイキトスで会いましょう。

↑このページのトップヘ