世界の最長河川中心に探険中!探険家よっしいのブログ

探険、冒険大好き人間、世界の最長河川中心に探険中! 探険・冒険大好き人間 中でもアンデス・アマゾンに惹かれる。 好きな食べ物はラーメンとカレー 好きな音楽はラテン

2018年10月

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ボルガ川河川地図
 
 
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               ヤロスラヴリ河港風景  ↑(最後に問題ありです。)
 ヤロスラヴリは、モスクワの北東約260キロ、大河ヴォルガのほとりに発展した、教会や修道院などの歴史的建築物に恵まれた美しい街で、この街のスパスキー修道院は、古代ロシア唯一の文学的傑作「イーゴリー戦記」の写本が発見されたことで有名
 
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                     ここが、スパスキー修道院 ↑

 この街はまた、ロシアの精神文化や建築、装飾、芸術などの根源的文化遺産が残る歴史都市を賞讃する「黄金の環」という名を付された都市郡の一で、この由来は、ロシアがまだ小さな都市国家の集合体であった時代の首都であった都市を線で結ぶと環状になることから命名されたものである。

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                        歴史地区の風景  ↑

 「黄金の環」を形成する都市郡は、ヤロスラヴリの他、キエフ、ノヴゴロド、モスクワ、ウラジミール、 ロストフ、スーズダリ、ニージュニー・ノヴゴロド、カザンなどである。

 街の起源は、 ロストフにいたキエフ・ルーシ時代の最盛期を築いたキエフ公国の大公ヤロスラフ賢公(978?~1054)によって、11世紀初頭に街が建設されたことに始まる。

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                       河港付近の街路風景 ↑

 伝説によれば、ヤロスラフ公がロストフ地方のヴォルガ川沿岸で狩りを行い、従士団から離れて一人になってしまい、コトロスリ川がヴォルガに流れ込む合流点にまでやってきた時、ヤロスラフは一頭の熊に襲われた。

 しかし、逆に手にした斧でこれを打ち殺し、公は事件を記念するため熊を倒した場所に教会を建て、自分の名を冠した街「ヤロスラヴリ」を創らせたという。
 
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                    イリヤ・プロロク教会(この教会が伝説の教会?)↑

 実際にこの辺りは「熊の土地」と呼ばれており、熊は異民族の支配する世界の象徴だった。

 ヤロスラヴリなど北東ルーシ原住の人々は、ハンガリー人などと祖を同じくするフィン・ウゴル系の人々。

 先住の異教徒の住む北東ルーシの世界に、植民者として入ってきた東スラヴ人たちは、先住民族を熊に例え、こんな伝説を創ったのだろう。

 ヤロスラフ公は異教徒・異民族を力で改宗させ、この地をキリストの土地に変えて行った。
 
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                               ヤロスラフ公 ↑

 13世紀になるとヤロスラヴリはロストフ・スーズダリ大公国最大の都市となる。

 そして1218年にヤロスラヴリ公国の首都として独立するが、 しかし間もなくタタール人(モンゴル帝国)が侵入し、およそ150年間、異教徒であるタタール人に支配される。

 タタール人支配時代や、周辺の強敵だったカザン・ハン国や アストラハン・ハン国との攻防の時代などを経て、19世紀中頃からはロシア有数の重工業都市としても発展し今に至っている。

 
 


 ここで、ヤロスラブリが生んだ、現在存命中の宇宙規模のヒロインを紹介。
 
 ヤロスラブリは、宇宙時代の幕開けとなった1960年代、女性として世界で初めて宇宙に飛び出したヴァレンチナ・ヴラディミロヴナ・テレシコワ(キリル文字:Валенти
́на Влади́мировна Терешко́ва193736-)を生み出した土地である。
 
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                               テレシコワさん ↑

 彼女は、1963616日にボストーク6号に搭乗し、71時間弱(34)の飛行で地球を48周し、史上初の女性宇宙飛行士となった人物。

 ヤロスラブリ紡績技術学校を1960年に卒業した工場労働者出身のテレシコワは、州の航空クラブに属していたのがきっかけで、宇宙飛行士候補となり、短期の飛行訓練を受けたのち、宇宙に飛び出した。

 彼女のコールサインはチャイカ(カモメの意、キリル文字:Ча
́йка)であり、"Я чайка"(ヤー チャイカ。「ヤー」はここでは「こちらは」の意味だが、チェーホフの戯曲『かもめ』の中で「私はカモメ」の意味で何度も登場する台詞でもある)が、女性宇宙飛行士が宇宙で発した最初の言葉となった。

 だが、彼女の宇宙飛行は、「私はカモメ」というような優雅な感覚のものではなく、ほとんどパニック状態での宇宙体験という大変なものだったようである。
 
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                            パニックで目もうつろ・・・  ↑

 無線機の扱いを間違え交信が出来なくなったり、暴れて窓ガラスにヒビを入れ、挙げ句の果てには宇宙船の設計者であるコロリョフを呼び出し、罵声を浴びせたりした。(彼は「ロシアのロケット開発の父」とも称される逸材で、世界最初の人工衛星“スプートニク”を製作したのも彼とそのチーム。)

 619日、テレシコワは無事に帰還する。この時も、大気圏突入にあたってのチェックがいっさい彼女から送られず、地上はハラハラしっぱなしだった。

 
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 結局、彼女の一連の振る舞いにより「女は宇宙には向かない」という印象を与え、数年後、女性飛行士チームは解散、彼女自身も、二度と飛ぶことは無かった。(でも、単身飛行で命がけのチャレンジをした当時「26歳のかもめさん」は、やはり真の探検家だったと、僕は確信している。)

 
 

 ヤロスラブリ市の近郊のカラビハ村は、民衆詩人プーシキンの後を受け継いだ、19世紀ロシアの詩人「ニコライ・ネクラーソフ」の故郷。(名前どおり、ネクラな人です。)

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                    サンクトペテルブルグの公園の中にある、ネクラーソフの像 ↑


 毎年、この村では、内外の文化人を招き、ネクラーソフをたたえる国際式典「ネクラーソフ祭り」を開催する。
 
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                     祭りは、ここに似た自然の美しい場所で開かれる。 ↑

 彼はこの村の地主の坊ちゃまとして生まれたが、ペテルスブルグ大学の受験失敗を期に父からの仕送りを絶たれ、極貧の青春時代を経て、創作活動への道に入り、ロシアを代表する民衆詩人・革命詩人となった。

 はげしく はげしく わたしは泣いた
 ふるさとの 河のほとりに
 立ったその朝
 そしてはじめてこの河を
 奴隷とかなしみの河と呼んだのだった。

   (「ボルガのほとり」1860年作、この詩に、ネクラーソフの本質が見えている。)

 詩人としての素質は今でも議論の余地があるということだが、ジャーナリストとしてのセンスは抜き出ていて、人気雑誌「現代人」「祖国の記録」の編集人等として長いあいだ文壇の中心にあって活躍した。

 この「現代人」という19世紀ロシア最大の雑誌を舞台として,ロシア最初の職業批評家ベリンスキーが生まれ、『猟人日記』のツルゲーネフ、戦争と平和のトルストイ、「平凡物語」のゴンチャロフなどが巣立っていく。

 ネクラーソフは「罪と罰」「カラマゾフの兄弟」などを書いたドストエフスキーを見出したことでも有名で、民衆詩人として既に名を成していた頃、持ち込まれたドストエフスキー(当時26)の処女作「貧しき人々」の原稿を読んで、感激のあまり、深夜にもかかわらず、ドストエフスキーの下宿を訪ねて、いきなり彼を抱擁し、その天分を賞賛したという。  (この話は、貧しい下級官吏のジェーヴシキンのあわれな恋の幻想がテーマ)

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                           ドストエフスキーの肖像画 ↑


 この他にも、「誰にロシアは住みよいか」など貧しい民衆に深い愛情を注いだ作品を書いたネクラーソフだが、彼の私生活は一風変わっていて、サンクトペテルブルグのイワン・パナーエフ夫妻の家に、夫、妻、妻の愛人(ネクラーソフ)という関係で、当時としてはめずらしくない関係で、しかも最も有名な関係として、三人で住んでいた。

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               サンクトペテルブルグのネクラーソフ通り公園の中にある、ネクラーソフの像 ↑
 
 この生活は10年も続いたという。

 イワン・パナーエフの死後、ネクラーソフは彼の妻と別れ、女性関係は乱れたようだが、その後34歳も年下の女性ジーナと結婚し、その妻に看取られながら生涯を終える。

 僕は、ネクラーソフの本質は、支配するものとしての貴族・地主階級の子弟の、支配されるものとしての奴隷・労働者(ナロード・民衆)階級に対する原罪意識から発生していると考えているが、この考え方によれば、罪が許されるのは、支配される階級による革命の成就しかありえない。結果として、ナロードのための、自己崩壊が前提となるのだが。

 ネクラーソフの長編叙事詩「デカプリストの妻」は、1825年1214日、皇帝の専制と農奴制に不満を持つ貴族の若い将校たちが起こしたデカブリスト(ロシア語で12月のこと)の乱の史実に基づく、夫の闘いの意義を理解し夫のシベリア流刑に付き添った彼等の妻たちの、住みなれた安楽な貴族の生活を捨ててシベリアへたどりつくまでの物語であるが、貴族という生活の放棄の物語でもある。

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               シベリア ペトロフスキー・ザヴォート駅のデカプリスト記念碑 ↑

 こうして、ロシア革命の思想的な下準備は、ネクラーソフや彼の仲間によって、19世紀の帝政ロシアの内部で醸成されていく。(ネクラな話になって、ゴメンネ。)

ここで、問題です。
下から好きなロシア作家を1人選んでください。理由も書いてね。
1 ネクラーソフ
2 プーシキン 
3 ドストエフスキー 
4 トルストイ

 

 
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 ボルガ川上流部地図、大きくして見てね。 ↑(いつものように最後に問題あり、答えてね。)

 
 ボルガ川は、モスクワとサンクトペテルブルク(旧レニングラード)の中間に位置するロシア西部のバルタイ丘陵に、その源を発する。

 源流の村は、ボルゴベルホーベ村、白樺の林やトウヒらしい松の巨木、モミの木やドロの木の混合林があり、湿地や小川の周辺ではハンの木が密生し、秋にはこのあたりの森でキノコが沢山採れると聞いた。
 
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 ボルガの水源には小屋が建てられており、その小屋の水溜りの中に、周りの森から滲み出たボルガの最初の一滴が誕生する。

 ボルガの源流は、長江やアマゾンなどと違い、ミシシッピの源流部と同じで、僅か225mの標高の場所から、静かに音も立てず流れ出している。
 
 


 ロシアは東スラブ人の国である。

 スラブは東スラブ人(ロシア人、ウクライナ人 、ベラルーシ人)西スラブ人(ポーランド人 、チェック人、スロバキア人)、南スラブ人(スロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人、モンテネグロ人、ブルガリア人、マケドニア人)に分類される。

 スラヴ人は古代、奴隷として多く扱われたため、英語では”スレイヴ”(奴隷)と言う言葉があるが、本来のスラヴ語の「スラヴ」の意味は、偉大さや栄光を意味するもの(例:ロシア語:славаスラーヴァ)である。

 ロシアとバルト海をはさんで北欧の諸国があるが、ロシアの国の成立には北欧のバイキング達の活躍があったことを知っているだろうか。

 
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 スカンジナビア半島やユトランド半島に住んでいた北ゲルマン人(ノルマン人)は、バイキング(入り江の人々という意味)と呼ばれ、8世紀の末からヨーロッパ各地の沿岸地方で交易や海賊をして、勢力を次第に拡大していった。

 キエフの修道士、ネストルの編纂した『過ぎし歳月の物語』(『原書年代記』とも言う)によると、862年、スウェーデン・ヴァイキングのノルマン人・ルス族(ロシアの語源)が首長リューリク(?~879)に率いられて北西ロシアに位置する「ノヴゴロド」を占領し、スラヴ人を征服してロシア最初の国家を建設した。

 ノヴゴロドの名前を訳すと『新しい街』の意になるが、その名に反してロシアで最も古い都市「ノヴゴロド」は、スウェーデン・ヴァイキングによって建設されたのである。

                      
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                 ノブゴロドにある、ロシア一古い教会  ↑

 このノヴゴロドを建設し、古代ロシアの中心都市「キエフ」を建設した人々は「ルーシ」と呼ばれ、その「ルーシ」がロシア(ルーシ族の国の意味)と呼ばれるこの国の、前の呼び名となった。
 
 ノブゴロド風景、日本の奈良のような歴史のある街です。↑

 ルーシ達は、東スラブ人の居住地を次々と支配し、その支配の過程の中で、「ルーシ」の国が形成されていった。

 
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                 黒丸の都市が、「ルーシ」の都市郡です。 ↑

 ノヴゴロドやキエフを建設した北欧バイキング達は、バルト海からラトガ湖を経てボルホフ川を上り、途中のわずかな陸地は船を運んでボルガ川水源の村に入り、そこからボルガを延々と下ってカスピ海に出て、対岸のペルシャの地まで到達し、バクダッドなどイスラムの諸都市と交易したという。
 
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            カスピ海沿岸の都市、バクーにある隊商宿(キャラバンサライ) ↑
 
 


 トベリ(旧カリーニン)はトベリ州の州都で、ヨーロッパロシア中央部、東ヨーロッパ平原の中央に位置している。(冒頭の地図参照)

 古代「ルーシ」の時代においては、ヴォルガ水系最上流地の河川交易路の重要な拠点都市として、ペルシャやインドとの交易に貢献したり、また北の中心ノブゴロドと南の中心キエフを結びイスタンブールまで繋ぐドニエプル川交易路の拠点都市としても栄えていた。

 この街に、18世紀のロマノフ王朝のロシア女帝「エカテリーナ2世」が、サンクトペテルブルグ(旧レニングラード)とモスクワとの往復の途中で泊まるための「旅の宮殿」を造り、19世紀の詩人プーシキンもここにしばらく滞在したことがあったという。
 
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                     詩人プーシキンです。 ↑

 アレクサンドル・プーシキン(1799~1837年)はロシアの国民的詩人、彼がグルジアの地に流刑になった時の詩を紹介する。


   「 乙女よ。私のために歌うな 」 

乙女よ、歌わないでくれ。そのグルジアの悲しい歌を。
その歌は私に遠い彼方の岸辺での過ぎ去った昔を思い出させるから。

ああ、お前の残酷な調べはあの草原を、夜を
そして月明かりに浮かぶあの娘の姿を思い出させるのだ。

お前の姿を見ているだけなら、私はその美しい姿を忘れられる。
だが、ひとたびお前が歌うと、あの娘の姿がまた現れてくるのだ。

乙女よ、歌わないでくれ。そのグルジアの悲しい歌を。
その歌は私に遠い彼方の岸辺での過ぎ去った昔を思い出させるから。
 
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        プーシキンはこのグルジアの首都「トビリシ」で美しい娘に出会ったのだろう。↑

 尚、この詩はセルゲイ・ラフマニノフ Sergei Rachmaninov 1873 - 1943 )の歌曲としても有名である。

 また、ボルガの河岸に臨む公園内には、トベリ州出身の15世紀の大航海者「アファナシー・ニキーチン」の銅像が立っている。

 北欧のバイキングの志を受け継いだかのように、ニキーチンはボルガ川を下り、ボルガ河口からカスピ海を経てペルシャへ、そしてついにインドに到達した。この到達年次は、喜望峰を経由してインドへ到達したパスコ・ダ・ガマの記録1498年より、四半世紀以上早く、1466年から1472年へかけてのことであった。

 僕も、このロシアの国を創るきっかけとなった北欧バイキング達やトベリの英雄「ニキーチン」と同じ行程を辿り、川の源流地から「ボルガ川の旅」を進めて行くことにした。
 
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               最終目的地は、ボルガ河口部の、ここカスピ海です。↑

 
ここで、問題です。
 あなたがルーシ時代のトベリの探検家なら、どこへ探検しますか?いけるのはせいぜいインドまでですが。 
 1 ペルシャへ絶世の美女を探しにいく。
 2 アルメニアへ、ノアの箱舟が到着したというアララッド山を見に行く。
 3 ウラル山脈を超え、シベリア探検へ行く 
 4 その他

 陸橋を渡り白兎海岸に向かうと、海岸前に「神話の地 白兎海岸」の立派な標柱が建っている。
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 標柱の隣の説明看板を読んでみた。
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 高草郡に住んでいた兎が洪水で於岐の島に流され、兎は陸へ戻りたいばかりに近海のワニザメをだまして陸へ戻ったので、ワニザメは怒って兎の皮をはぎ、赤裸にした・・・・という例の因幡の白兎の話が書かれていた。
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 この神話の中の於岐の島が、標柱の斜め左にあるこの島である。
 神話の世界で想像しているよりもずっと陸に近く、この近さではわざわざワニザメを登場させる意味もないのではと思ってしまった。
 ここ白兎海岸は、ワニザメに皮を剥がれて泣いている白兎と大国主命の出会いの場でもあり、神話では大国主命が白兎(稲羽の素兎)を助ける話ばかり有名になっているが、実際はこの話は神話のメインではないのである。
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 神々の国出雲で大国主命の異母兄弟である八十神達は、因幡の国八上の郷(現河原町)に美しい姫がいると伝え聞き、この八上姫をめとろうと考えた。
 八十神達は弟の大国主命に八上姫への贈り物を全て持たせ、因幡の国の八上姫のもとに向かったが、その途中で傷ついた白兎(稲羽の素兎)と大国主命が出会うのである。
大国主命に助けられた白兎は回復し、そのお礼に白兎は「八十神は八上姫を絶対に得ることはできない」と告げる。

 白兎の言葉通り、八上姫は八十神をはねつけ、大国主命に「袋を背負われるあなた様が、私を自分のものにしてください」と言ったと古事記に書かれている。
 その後、二人は八上の里で幸せな結婚生活をして、やがて子どもをもうけた・・・・。
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 この話には続きがあり、八上姫は大国主命と出雲に行くのだが、嫉妬深い正妻のスセリ姫と折り合わず再び八上の里に戻ることになる。
 この八上の里は当初の計画では今日一番に訪れる予定にしていたが、例のトラブルによって霧消してしまったので、ここで少しだけ記載しておく。
 八上の里も伝説の美女となった因幡の采女達を生んだ土地の一つであり、彼女たちの先祖が神話に登場する八上姫なのである。
 大国主命の時代は男性が妻の家を訪ねる通い婚で、大国主命はあちらこちらの美女の元を訪れていて、各地で生まれた大国主命の子どもは180人以上だったと伝えられている。
 越の国の奴奈川姫とのロマンスも有名であるが、これら各地の姫との結婚は出雲王国の、日本各地への勢力拡張の姿と考えられている。
 
 

 10分程で宇部神社に到着した。
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 宇部神社は、因幡の国の一宮である。
孝徳天皇大化4年(648)の創建と伝えられ、延喜式では鳥取県で唯一の名神大社(延喜式神明帳に記載のされた神社の中でも重要とされ、特別の社格が与えられた神社。)となっている。
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この鳥居をくぐってこれから社殿へ向かう。
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宇部神社は国府町にあるが、この辺りは古来から政治の中心だった場所で、鳥取藩主池田家の墓所はすぐ近くにあり、文武天皇に采女として仕え地方豪族出身の娘としては希な従7位下の位を授けられた伊福吉部徳足比売の墓も、ここからそう離れていない稲葉山の中腹にある。
この辺り一帯は因幡国庁跡と同じように、万葉の香りで満ち満ちた場所である。
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社殿までの階段はけっこう長くけっこう急で、階段を昇りつめた最後に上を見上げると、「吠える 鳥取県」と大きな白布に赤字と黒字で大きく書かれた筆字が歓迎してくれた。
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そして、社殿到着である。
現在の社殿は明治31年に完成したが、翌32年には全国の神社では初めて主祭神である武内宿禰命の御尊像と共に五円紙幣に載せられた。
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以後大正・昭和と数回、宇部神社社殿は五円や一円紙幣の図柄となった。
宇倍神社の見学を終え、次に白兎海岸に向かった。
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 白兎海岸までは時間で30分程、距離で17km位である。
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 ここでの出迎えは、もちろん大国主命と因幡の白うさぎである。

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              チベット族の居住区域、中国の4分の1の区域に住む。 ↑
                   最後に問題あり、今回も回答よろしくです。
 
音楽あり、↓クリックです!!

 
 東シナ海に注ぐ長江の河口からさかのぼり、青蔵高原の西の端に位置するタングラ山脈の大氷河の末端を源流とする6380kmもの河川延長を誇る長江の旅も今回で終了。

 今回の旅は最終ゴール地点への到達を目的とする旅となった。

 長江の最上流部に広がるのは青蔵高原、そこを流れる長江は、ここでは通天河と呼ばれる。
          
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                  通天河とタングラ(唐古拉)山脈  ↑

 通天河をさかのぼれば、長江源流(その河で最も河口から遠い場所)である。

 1976年から1978年にかけて、長江探査隊が通天河の源流地を調査した結果、長江の源流は、タングラ(唐古拉)山脈の最高峰であるグラタンドン(各拉丹冬)を流れ下る三つの河川、トトホー、ダムチュ、ガルチュのうちの、最長を有するトトホーであることが特定された。

 
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                     トトホーの流れ  ↑

 最源流の川「トトホー」の最初の一滴を生み出すグラタンドン(各拉丹冬)は、チベット族に伝わる伝説の「神の棲む山」であり、そこは人の近づけない「雪と氷に閉ざされた世界」である。

 
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                    神の山「グラタンドン」 ↑

 通天河の流れる青蔵高原は、世界の秘境「チベット」の世界でもある。

 「チベット」は農業と放牧を生活基盤とし、特産物は、チベット綿羊、チベットヤギ、ヤク、ウマ、偏牛(ヤクとウシの雑種)である。

 とりわけヤクは体が大きく長毛で寒さにも強く、重要な交通輸送手段として、同時に豊富な毛皮、ミルク、バターや各種乳製品、畜産物を提供してくれる家畜としてチベット族の生活に深く入り込んでいる。

 
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                   農業の主役、ヤクです。 ↑

 彼等の主食はツァンパ、チンクー麦の粒を妙って粉にし、これに水や茶を加えて手で練った食べもので、チベット族伝統のバター茶(木や竹で作った茶筒に食塩とバターを入れて、よく撹絆してつくる。)を飲みながら食べる。

 
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                     バター茶とツァンパ ↑

 茶はチベットでは採れず、雲南省から輸送されてくる。(以前は茶馬の道を介し、交易により手に入れた。)
 
 
 
 
 漢籍史料の記載によれば、青蔵高原は古来「西羌人」の遊牧地区であった。

 「西羌人」が現在のチベット族の祖先であろうと考えられている。

 チベットが初めて国の形態をとるのは西暦6世紀、雅隆地区の首領が鶴提悉勃野部族同盟の指導者になり、「ツァンプ」と名乗り、奴隷制社会に入った。

 西暦7世紀に至って、ソンツェン・ガンポがチベット全域を統轄し、吐蕃王国を築いた。

 吐蕃王国は、その後多くの漢族や西域あるいは南詔国の各集団を統治し、これら集団の住民の一部もチベット族に組み込んだが、後に元王朝が吐蕃王国を中央政権の支配下におさめ、チベット族は単一民族として形成されていき、漢族の史書の中で、吐蕃、西蕃、唐古特、蔵蕃などと呼称され、ダライ・ラマの統治する国として存続してきた。

 
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                  ダライ・ラマの宮殿、ポタラ宮 ↑

 欧米列強のアジア進出がつづいた19世紀から20世紀にかけて、天然の要塞に囲まれた陸の孤島チベットにも、近代化の波が押し寄せた。

 それまで、中国に朝貢するという形で、中国との間では朝鮮半島諸国程度の政治的バランスを取っていたチベットは、欧米列強の雄イギリスに翻弄されたり社会主義化した中国に翻弄されたりした。

 この両国との激しい独立運動の末、1959年にはチベットの政治的・宗教的統治者であるダライ・ラマ14世がインドに亡命した。(アメリカインディアンの歴史を思い出すよ。)

 
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             ダライ・ラマ14(ノーベル平和賞受賞者、チベット独立運動を継続中)  ↑


 中国大陸の4分の1を占める面積を有する平和な仏教国「チベット」は、この時点で事実上中国の領土の一部となり、その土地の約500万の住民は、中国の少数民族の一つとされ、現在にいたっている。

ダライラマの言葉にこんなものがある。

 「平和への道があるわけではありません。平和が道だからです。」
 かれも、ガンジーと同じ、非武装、非暴力の人なのです。
 
 

 中国は21世紀に入っても、急速な経済的成長を持続している。その一番の原動力が、西部開発プロジェクトだろう。

 中国少数民族の居住する地域はほぼ全域が西部(国土の70)に当たり、漢族の居住する先進地域である東部(国土の30)に比べ、経済的に立ち遅れており、貧困者の占める割合が多い。

 これを是正し、全国民(全民族)の経済的平等を目的に計画されたのが、西部開発プロジェクトである。

 西電東送(内モンゴルの火力発電電気を中国東部へ送る)、南水北送(長江流域の水を黄河流域に送る)等があり、このチベットに計画された大プロジェクトが青海チベット鉄道である。

 
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                     青海チベット鉄道の工事  ↑

 世界で海抜最高、距離最長の鉄道――青蔵鉄路(青海チベット鉄道)は、2005 1015日に全線開通した。

 青海チベット鉄道は西寧―ラサ間1,956kmを走る鉄道で、20063月から貨物輸送で試運転が始まり、7月から客車運行の全線試運転が始まる。

 西寧―格爾木(ゴルムド)間は既に80年代初頭に完成しており、格爾木(ゴルムド) ―拉薩(ラサ)間1,142kmが今回完成して全通した。

 通過主要駅は格爾木(ゴルムド)の次に崑崙山口(クンルンシャンコウ)―不凍泉(ブドンチゥエン)―五道梁(ウーダオリァン)―沱沱河沿(トトホユァン)―通天河(トンティエンホー)―唐古拉山口(タングラシャンコウ)―安多(アムド)―那曲(ナクチュ、ナーチュー)―当雄(ダムション)―羊八井(ヤンパージン)―拉薩(ラサ)の各駅、唐古拉山口駅は世界最高所(海拔5068)にある駅である。


 僕はこのとてつもないプロジェクトを前に、環境学者の心配する地球規模での自然破壊よりも先に、宮沢賢治の銀河鉄道の夜を思い出してしまった。

 4千mを越える高原地帯を行く旅客列車は、乗客の健康と安全のために、二重ガラスによる密閉式の風防ルームが車両と車両の間に設けられ、低気圧と酸素不足による高山病の緩和に対処する。(まるで、宇宙を走る銀河鉄道のようだね。)

 もちろん車内空調でも酸素調整を行い、かつ各車両には必要時に酸素を吸えるよう器具を設置する。(これはもう、宇宙旅行だ。
)
 

 この夜、僕はチベット族自治州の中心都市ジェクンド(玉樹)の宿で、青蔵高原を銀河鉄道に乗り、馬や単車で草原を駆け回った夢を見た。

 
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                青藏鉄道の最高橋――三岔河特大橋、最高所は50mを超える。 ↑

 21世紀は、中国の世紀と言われている。ただ、その意味するところは、欧米型の畑作牧畜民族が15世紀の末から作り上げてきた拡大征服型社会の延長線上にあるものである。

 西部開発も、ヨーロッパ人がアメリカを駅馬車で進みながらインディアンのような少数民族を自民族の文化圏に取り込んできた歴史にどこか似ている。

 中国を形成する56の民族のうち、漢民族以外の55の少数民族は、そのほとんどが、中国大陸の周辺や辺境と呼ばれるところに、中国大陸の外枠をなぞるような形で居住し、次第に漢化されながらも、今のところは独自の文化を守り伝えている。

 
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                チベット民族の男女による民族舞踊  ↑

 21世紀の中頃には、中国はGDPで世界一となるという。その頃の2番目はアメリカ、そしてインド、ロシアと続いて行く。

 その到達までの道程は、先進諸国が歩んできた道程とまったく同じで、大量のエネルギーを使っての、大衆消費社会への道である。

 ここで、問題です。
21世紀の中頃には、中国少数民族の人々の生活はどうなっていると思いますか?
 
1 独自の文化を保って、引き続き桃源郷的な生活をしている。
2 漢人に同化し、物質的に豊かな社会で生活している。
3 その他(自由な考えで書いてください。

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