世界の最長河川中心に探険中!探険家よっしいのブログ

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2019年09月

https://youtu.be/iS33fWD02Cs
P5170184

https://youtu.be/9IzqcKboPBg
P5190369

https://youtu.be/1PAqmpcUnoA
P5190359

二つめの話は、5世紀となる。
この時代は倭の五王の時代で、大和政権は強大な力となり、朝鮮半島南部の支配をめぐって優位な立場に立つため、中国の宋に朝貢して安東将軍などの称号を得た。
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 例の讃、珍、済、興、武の時代で、大阪の堺市には仁徳天皇(讃と比定されている)陵などの巨大な前方後円墳が造られた。
一方朝鮮半島南部では4世紀に百済と新羅がそれぞれの地域を統一、高句麗・百済・新羅の時代となっていた。
5世紀になると、大伽耶が新羅や百済と対抗しながら新興勢力として勢力を伸ばして来た。
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この大伽耶は日本海ルートで若狭の豪族と交流があった。
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この福井県若狭町脇袋地区には、大和朝廷系のものと思われる7つもの古墳があった。
その一つである西塚古墳を大正時代に発掘したところ、大伽耶の耳飾りにそっくりな耳飾りが見つかった。
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大和政権を経ず、直接新興勢力の大伽耶と交流していたと思われる。
北陸の豪族達はその後も、朝鮮半島と独自の交流を持ち続けた。
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 6世紀、その北陸の豪族達の中から、後に継体天皇となる男大迹王(おおどおう)が出現した。
 男大迹王の父は近江の出身で、母は越前の出身である。
 越前には当時越王国といわれる独自の勢力があり、この王国の古墳群の中から、大伽耶との関連を示す冠が出土している。
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大伽耶の儀礼を取り入れていたことを示す冠である。
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男大迹王の一族は、朝鮮半島南部と独自に結びついていたと見られている。
彼らは大和政権とも通じながら、日本海ルートを通じて、朝鮮半島南部から先進的な文化を取り入れていたのである。
新羅とも北陸の豪族達は交流していたようだが、継体天皇の時代からは百済を中心として先進的な文化を朝鮮半島から取り入れていった。
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 継体天皇の墓とされる今城塚古墳から出土した埴輪には、先進的な文化を積んで日本海ルートや瀬戸内海ルートを航行したであろう帆掛け船が描かれている。
 
 
 

渤海のことを取上げたちょうど良い資料がNHKスペシャルで放映された「日本と朝鮮半島2000年」である。
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 その第5回のテーマが、「日本海の道~幻の王国・渤海との交流~」である。
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 古代の朝鮮半島との交流は、玄界灘から瀬戸内海を通る青線の「瀬戸内海ルート」が主流だったが、直接日本海を渡る赤線の「日本海ルート」での交流も行われていた。
 この両ルートは、日本民族成立のルートでもある。
日本人の血は、狩猟採取で生活していた縄文人と、大陸から農耕技術を持ってやって来た弥生人の混血で、この両ルートでやって来た大陸からの弥生人のもたらした血と技術によって、現日本人が誕生するのである。
農耕技術者渡来以降も朝鮮半島からの弥生人の大きな渡来は二度に渡ってあった。
一度目は青銅器を持った人々で、主に日本海ルートを通って日本海側を中心に日本列島に入植し、一つの文明を築いた。
この人々が「出雲族」で、彼らは銅剣や銅鐸を入植した地で製作し、それを神として「出雲王国」を起こし、越や筑紫などと日本海文化圏を作った。
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荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡に残された大量の銅剣や銅鐸は、華やかな文明の残滓である。
二度目は鉄器を持った人々で、主に瀬戸内海ルートを通って大和盆地に入って縄文時代程度の暮らしをしている人々を征服して王朝を作った。
この人々が「大和族」で、大和王権を樹立しライバルとなる地方王国を制圧して、やがて日本国を成立させていくのである。
話が飛躍したので、元に戻す。
朝鮮半島から遥かに離れた東日本で、弥生時代末期の頃に日本海ルートを通じて朝鮮半島との交流があったことを示す遺物が発掘された。
 長野県木島平の根塚遺跡(弥生時代の古墳)から出土した鉄剣で、この時代の物としては全国最大級で78cmもある。
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この鉄剣は、当時の朝鮮では身分の高い人の墓に埋葬されているもので、日本では二例しかなく、非常に珍しいものだという。
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この長野県木島平は日本海から直線距離にして30kmくらいで、弥生時代末期にはここまでの日本海ルートがあったことを示す証拠となった。
鉄製品は、山陰などの日本海側で多く見つかっている。
この頃、朝鮮半島南部と日本海側はバーター貿易(物々交換の形で行う貿易方式)をしていたようで、朝鮮半島南部からは鉄製品がもたらされ、日本からは糸魚川産の翡翠が朝鮮半島南部にもたらされた。
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翡翠は朝鮮半島南部では全く採れなく、当時は王がその権力を示すために豪族達に配っていた。
いずれにしても壮大な話で、渤海の話の、これが前座話である。

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