結局1時間半も迷いに迷って、ようやく滋賀県蒲生郡日野町小野にある鬼室神社(鬼室集斯の墓)に到着した。

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ここに来るのにこれだけ苦労したので、目的地到着の喜びが何倍にも増した。

鬼室集斯はこの旅の中では特別な人である。

朝鮮民族と日本民族は、古い時代からそれぞれの国を離れて異国の地に移り住んで、異国の国のために沢山の方々が働いていた。

 日本民族の方はここでは省略するが、百済が滅んだ時代に日本の国のために働いた方が鬼室集斯である。
 鬼室集斯は日本の古代史上では大変重要な戦いであった白村江の戦いの敗残者で、その後日本に亡命した百済人である。

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 白村江の戦いとは、663年(天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、 倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争のことである。
 戦いの結末は、唐・新羅軍の圧勝に終わり、百済につぎ668年に高句麗を滅ぼした新羅(統一新羅)の時代となっていく。

 この時代の大和の国のリーダーである天智天皇にとっては、この敗戦は大化の改新以来進めてきた改革路線の最大の危機となり、結果的には天智天皇路線は壬申の乱により滅びさり、天武天皇の時代へ継承される。


 白村江の戦いは大敗し、百済復興は成らなかったが、日本は百済人をそのまま見捨てはせず、この戦争後、大勢の百済難民が日本に移住した。

鬼室集斯もその一人である。

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 司馬遼太郎の「韓のくに紀行」の最終章は「近江の鬼室集斯」というタイトルで、朝鮮から日本に亡命して日本の国造りに貢献した鬼室集斯を中心に書かれている。
 亡国となった百済、その万を超える百済人たちが日本に移住して来たが、「韓のくに紀行」によ
れば、一般人は北九州や山陰あたりに住んだのかもしれないが、鬼室集斯のような百済の王族は、天智天皇とその取り巻きが直接世話をし、近江の蒲生野のあたりに住まわせたと記載されている。

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この時、鬼室集斯とともに佐平余自信という王族も一緒に来ており、天智朝廷は彼らを優遇し、鬼室集斯に小錦下の冠位を与えた。

小錦下はのちの従五位下に相当し、当時としては大層な位階だったという。
 天智朝は白村江の戦いに敗れて後、常に唐と新羅から攻撃されるのではないかと怯え続けていたので、 国防施設を玄界灘や瀬戸内海の沿岸に築くとともに、百済難民を東国へ移住させ、都を奈良盆地の飛鳥から琵琶湖南端の近江宮へ移したりした。

また、強力な統一国家を早急に確立するため官僚養成を目的とする大学を作る必要があったので、鬼室集斯は百済人であったが、日本の国家的要請により日本最初の大学の総長となった。

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感動の鬼室神社境内を歩いて行くと、最初にこんな建物があった。

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 近づいてみると、集斯と書いてあった。

 近くに説明看板があったので読んでみた。

 ここは日野町と韓国ウルサン市の姉妹都市交流20周年を記念して整備した交流広場で、中央に位置する建物は休憩所。

この休憩所は鬼室神社の祭神であり姉妹都市交流のきっかけとなった鬼室集斯にちなんで、集斯亭と名付けられた。

曲線で構成された屋根や扇状の垂木、色鮮やかな丹青など韓国の古代様式を模していて、交流のシンボルとなっている。

これから、鬼室神社に入っていく。