カテゴリ: フィールド・ノート(探検家)
麗江を世界に紹介した探検家 ジョセフィン•ロック
ナシ族の祖先は、古代中国の西北部に住んでいた遊牧民族羌族で、その中の一派が南遷し、やがて現在の麗江に住むようになったと考えられている。
ナシ族は、かつては官吏登用試験である科挙及第者を輩出したことなどからも推察できるが、学習意欲が非常に旺盛な民族で、現在も漢語の普及率が70パーセントを超える。
ナシ族は、かつては官吏登用試験である科挙及第者を輩出したことなどからも推察できるが、学習意欲が非常に旺盛な民族で、現在も漢語の普及率が70パーセントを超える。
ナシ族の娘たち ↑
象形文字のトンパ文字を持つ民族で独特の文化、衣装、風俗を今に伝えている。トンパは巫師の意で、占いのために考え出されたのがトンパ文字の起源であるという説もある。
この麗江を世界に紹介したのがジョセフィン•ロックである。
象形文字のトンパ文字を持つ民族で独特の文化、衣装、風俗を今に伝えている。トンパは巫師の意で、占いのために考え出されたのがトンパ文字の起源であるという説もある。
この麗江を世界に紹介したのがジョセフィン•ロックである。
一番左の男性がジョセフィン•ロック ↑
ジョセフィン•ロック(1884-1962)、アメリカ籍のオーストリア植物家、地理学者、人類学者であり、1920年代以来、彼はアメリカ「国家地理雑誌」の探険家、編集者、撮影家として、麗江に27年住んでいた。
玉龍雪山を初めて外国人に紹介した学者であり、世界遺産に登録された麗江の沢山の風景写真を撮った。
ロックは探険隊の大本営を玉龍雪山の麓の玉湖村に建てた。この村に今でも、当年ロックが住んでいた部屋とたくさんの遺物が残っている。
ジョセフィン•ロック(1884-1962)、アメリカ籍のオーストリア植物家、地理学者、人類学者であり、1920年代以来、彼はアメリカ「国家地理雑誌」の探険家、編集者、撮影家として、麗江に27年住んでいた。
玉龍雪山を初めて外国人に紹介した学者であり、世界遺産に登録された麗江の沢山の風景写真を撮った。
ロックは探険隊の大本営を玉龍雪山の麓の玉湖村に建てた。この村に今でも、当年ロックが住んでいた部屋とたくさんの遺物が残っている。
ロックの旧居です。 ↑
ロックは一組の地元のナシ人を雇って、訓練した後で助手にした。ロックが出掛ける度に武装したナシ族随行隊員が六、七名お供をする。
彼は当時流行していたアヘンを吸うことを絶対に許さず、探検旅行の途中の幾多の危険を、強い規律と信頼関係により回避した。
ロックは一組の地元のナシ人を雇って、訓練した後で助手にした。ロックが出掛ける度に武装したナシ族随行隊員が六、七名お供をする。
彼は当時流行していたアヘンを吸うことを絶対に許さず、探検旅行の途中の幾多の危険を、強い規律と信頼関係により回避した。
彼は、滇西北及び四川木里などの探検の度にたくさんの民族文化資料を採集し、ナシ族に関する専門書を十数冊出版した。そのなかでは、「中国西南古ナシ王国」、「ナシ語-英語百科全書」などが有名。
アメリカインディアンの探検家、サカジャウィア
ももは僕のファンで、「クラブ楽園」の主催者でもある。
僕もこのクラブに誘われてメンバーの一人になったが、コナさんが主催されていた「Korean Music♫♬楽しみましょう(*Ő‿Ő) 」に誘われたのが最初で、彼女は2番目に誘ってくれた方である。
この「クラブ楽園」や彼女のホムビィで探検家列伝等を掲載させていただき、感謝している。
彼女にこんな小さな物語を創作して、ホムビィに掲載したこともあった。
雪国の小さな小さな物語ダヨ
今夜は、提さんと二人で、冬の頃に知り合った友人を訪ねて
タイムスリップしました。
彼女は実は雪女で、寒い冬にしか生きていられないのです。
僕は、バーでいい気分で飲んでいた提さんを無理やり連れ出して、この過去になった思い出の場所に来ました。
sayショット
(-^□^-)(≡^∇^≡)(¬w¬*)(^-^)/
彼女は、雪だるまの影に実は隠れています。
僕は、彼女を呼び出す呪文を、調べているところです。
提さんは、すっかり酔いがさめたようです。
彼女に現れて欲しいです。それで、僕は呪文を唱えました。
sayショット
(-^□^-)(≡^∇^≡)(¬w¬*)(^-^)/
良かった、また、彼女にめぐり会えた。
僕は、今夜は遅くまで、雪女と楽しく過ごしました。
提さんは、もちろん、愛妻のところへ、無事帰りました。
ある雪国の、小さなお話です。
今日は、提さんとくまちゃんに協力願いました。
友情出演、ありがとうございました。
くまちゃん (05/13, 21:43)
うわ~・・素敵な、お話ですね・出演出来て、嬉しいです・ありがとう・!!
もも (05/14, 01:23)
この、物語よかったら、私の、ホムビィの、日記に、載せて、頂けますか?
tyunnsan (05/14, 05:48)
御協力、カムサハムニダ(謝謝)。写真を使って、物語を即興で作ってみました。気に入っていただければ、幸いです。
これは、sayショットを2枚使って作成したのだが、ここではもうsayショットは使えない。
けっこう童話みたいで、綺麗な場面だった。
僕もこのクラブに誘われてメンバーの一人になったが、コナさんが主催されていた「Korean Music♫♬楽しみましょう(*Ő‿Ő) 」に誘われたのが最初で、彼女は2番目に誘ってくれた方である。
この「クラブ楽園」や彼女のホムビィで探検家列伝等を掲載させていただき、感謝している。
彼女にこんな小さな物語を創作して、ホムビィに掲載したこともあった。
雪国の小さな小さな物語ダヨ
今夜は、提さんと二人で、冬の頃に知り合った友人を訪ねて
タイムスリップしました。
彼女は実は雪女で、寒い冬にしか生きていられないのです。
僕は、バーでいい気分で飲んでいた提さんを無理やり連れ出して、この過去になった思い出の場所に来ました。
sayショット
(-^□^-)(≡^∇^≡)(¬w¬*)(^-^)/
彼女は、雪だるまの影に実は隠れています。
僕は、彼女を呼び出す呪文を、調べているところです。
提さんは、すっかり酔いがさめたようです。
彼女に現れて欲しいです。それで、僕は呪文を唱えました。
sayショット
(-^□^-)(≡^∇^≡)(¬w¬*)(^-^)/
良かった、また、彼女にめぐり会えた。
僕は、今夜は遅くまで、雪女と楽しく過ごしました。
提さんは、もちろん、愛妻のところへ、無事帰りました。
ある雪国の、小さなお話です。
今日は、提さんとくまちゃんに協力願いました。
友情出演、ありがとうございました。
くまちゃん (05/13, 21:43)
うわ~・・素敵な、お話ですね・出演出来て、嬉しいです・ありがとう・!!
もも (05/14, 01:23)
この、物語よかったら、私の、ホムビィの、日記に、載せて、頂けますか?
tyunnsan (05/14, 05:48)
御協力、カムサハムニダ(謝謝)。写真を使って、物語を即興で作ってみました。気に入っていただければ、幸いです。
これは、sayショットを2枚使って作成したのだが、ここではもうsayショットは使えない。
けっこう童話みたいで、綺麗な場面だった。
日本人のルーツを研究テーマとした人類学者兼探検家「鳥居龍蔵」
昆明の近くに滇(てん)池(いけ)という名の湖があるが、このほとりに、「滇(てん)王国」という謎の王国があった。
紀元前400年から紀元後100年くらいまでの間栄えていたというが、日本では弥生時代、中国では戦国から前漢、後漢といわれた時代の頃である。
滇(てん)王国は、長江文明を担った人々が北方から来た畑作牧畜の漢民族に追われて、雲南の地に作った稲作漁労民族の王国であると、安田喜憲氏はその著「長江文明の謎」の中で言っている。
長江文明を発展させた稲作漁労の民は、雲南の地で滇(てん)王国を興し、日本に渡って弥生文化を興した。
長江文明を親とすれば、滇(てん)王国と弥生文化は兄弟のようなものである。その日本のルーツとも言える苗族など少数民族、日本人の兄弟とも言える人々の住んでいる国に、とうとう僕は辿り着き、その歌舞を楽しみ、まるで盛唐時代の国際都市「西安」のような夜を過ごしている。
司馬遼太郎は昆明のホテルでの夜を鳥居龍蔵博士の伝記を読んで過ごしたというが、僕もそれにあやかり、夜遅くまで彼の中国での調査報告を読んでいた。
晩年の鳥居博士 ↑
紀元前400年から紀元後100年くらいまでの間栄えていたというが、日本では弥生時代、中国では戦国から前漢、後漢といわれた時代の頃である。
滇(てん)王国は、長江文明を担った人々が北方から来た畑作牧畜の漢民族に追われて、雲南の地に作った稲作漁労民族の王国であると、安田喜憲氏はその著「長江文明の謎」の中で言っている。
長江文明を発展させた稲作漁労の民は、雲南の地で滇(てん)王国を興し、日本に渡って弥生文化を興した。
長江文明を親とすれば、滇(てん)王国と弥生文化は兄弟のようなものである。その日本のルーツとも言える苗族など少数民族、日本人の兄弟とも言える人々の住んでいる国に、とうとう僕は辿り着き、その歌舞を楽しみ、まるで盛唐時代の国際都市「西安」のような夜を過ごしている。
司馬遼太郎は昆明のホテルでの夜を鳥居龍蔵博士の伝記を読んで過ごしたというが、僕もそれにあやかり、夜遅くまで彼の中国での調査報告を読んでいた。
鳥居龍蔵博士です ↑
明治の時代、日本人の源流を求めてアジア各地を精力的に踏破した人類学者兼探検家が鳥居龍蔵、研究テーマの根幹は「日本人のルーツ」、つまり日本人はどこから来たのかという疑問への挑戦だった。
彼は雲南省など西南中国を回り、苗族と台湾の少数民族である生番族が同じルーツを持つという仮説を立てた。
この仮説は、長江文明の発見により、今立証されようとしている。
日本人は、苗族や台湾の生番族と同じ文化を受け継いでいたのである。
鳥居龍蔵は、1870(明治三)年、今の 徳島市 船場町、 新町 川沿いの四国でも屈指のたばこ問屋に生まれた。
独学して創設されたばかりの、東京人類学会の会員になり、90年、二十歳で上京。その後人類学者として、アジアを中心に世界各地を調査・探検した。
明治の時代、日本人の源流を求めてアジア各地を精力的に踏破した人類学者兼探検家が鳥居龍蔵、研究テーマの根幹は「日本人のルーツ」、つまり日本人はどこから来たのかという疑問への挑戦だった。
彼は雲南省など西南中国を回り、苗族と台湾の少数民族である生番族が同じルーツを持つという仮説を立てた。
この仮説は、長江文明の発見により、今立証されようとしている。
日本人は、苗族や台湾の生番族と同じ文化を受け継いでいたのである。
鳥居龍蔵は、1870(明治三)年、今の 徳島市 船場町、 新町 川沿いの四国でも屈指のたばこ問屋に生まれた。
独学して創設されたばかりの、東京人類学会の会員になり、90年、二十歳で上京。その後人類学者として、アジアを中心に世界各地を調査・探検した。
モンゴルを調査する鳥居隊 ↑
1922年、東京帝大助教授のいすを得たものの、独学者への風当たりは強く、他の教官と対立し、辞職。
39年、中国・燕京大(後に北京大に吸収)に客員教授として招かれ、一家で移住。51年帰国。
手記に「私は学校卒業証書や肩書で生活しない。かの聖人の言に『朝に道を聞いて夕に死すとも可なり』とある。この言は私の最も好む所」とある。
遠くシベリアから台湾、韓国、中国、モンゴルまでも縦横無尽に踏破した民族学、考古学史上の巨人、鳥居龍蔵は82歳で永眠した。
1922年、東京帝大助教授のいすを得たものの、独学者への風当たりは強く、他の教官と対立し、辞職。
39年、中国・燕京大(後に北京大に吸収)に客員教授として招かれ、一家で移住。51年帰国。
手記に「私は学校卒業証書や肩書で生活しない。かの聖人の言に『朝に道を聞いて夕に死すとも可なり』とある。この言は私の最も好む所」とある。
遠くシベリアから台湾、韓国、中国、モンゴルまでも縦横無尽に踏破した民族学、考古学史上の巨人、鳥居龍蔵は82歳で永眠した。
幕末の探検家 松浦武四郎の天塩川探検
明治時代以前の天塩川の様子を伝えるものの一つである幕末の探検家・松浦武四郎の「天塩日誌」によると、松浦武四郎は1857年(安政4年)6月に、天塩川河口からさかのぼり、源流近くまでを探検している。
武四郎の北海道探検としては第5回目にあたり、このときは石狩川と天塩川を探検した。
天塩日誌によると、武四郎は、4人のアイヌたちとともに、石狩川河口から浜益港を経由して天塩川河口に至り、その後は川筋をたどる形で幌延、雄信内、中川、音威子府、美深と歩き、名寄をベースキャンプにしてさらに本流、支流を探検し、現在の朝日町の源流近くまで到達している。
(武四郎の天塩川探険行程地図)
1587年6月6日に天塩川の河口を出発し、6月23日まで天塩川源流地に留まっていて、7月1日には再び天塩川河口に戻っている。
この時の探険は、武四郎40歳の時の探険で、蝦夷地は5回目となる。
丸木舟2艘に和人1人(武四郎)、アイヌ人4人(アエリテンカ、トセツ、エコレフ、キコサン)が乗り込んで、天塩川を遡上していく。
米、味噌などの食料と縄、ムシロ、ゴザ、鍋などの野営道具を積み、初めての北の大河を進んでいった。
野宿が半分、アイヌ人の家での宿泊が半分、食事は持参したものだけではなく、川で獲った魚や貝も食べている。
(博物館内の武四郎関係の商品や資料)
天塩川探険は旧暦の6月で、今の暦では7月下旬頃のこと、昼間はブユ、ヌカカ、アブ、夜は蚊に悩まされた。
野宿の時は火を焚いたり蚊帳を張ったりして蚊の攻撃を防いだ。
北海道を含めて寒冷地に生息する蚊の怖さは半端ではない。蚊は黒い雲のようになって人間を襲い、人間は全身を刺されてかゆさに飛び上がる。
カヌーイストの野田知佑の北極海に流れ込む大河マッケンジー川での探険物語「北極海へ」を読むと、極北の蚊の凄まじさは想像を絶する程度であるのが解る。
松浦武四郎の丸木舟の旅も、同じようなものだったと推測される。
大便をするのも冗談ではなく命がけとなるので、野田知佑も松浦武四郎も、蚊やブユに刺されないように、川に入って水に浸かりながら用を済ませたと記載している。
武四郎の北海道の探険は、28歳の時が初めての探険、この時は東蝦夷地を調査している。
以下、29歳の時に2回目の探険で西蝦夷地、32歳の時に3回目の探険で千島等の調査、39歳の時に4回目の探険で樺太を調査、武四郎の探険は41歳の時 の6回目の東蝦夷地調査を最後に終了し、江戸に住んだ。
(館内にある武四郎の一畳敷きの書斎の複製)
70歳を前に足腰の衰えを感じていた武四郎は、もう旅をすることは難しいと思ったのだろう、全国の知人に頼んで、各地の古社寺などから古材を贈ってもらい、これを組み合わせて、たった一畳のスペースしかない書斎を自宅に増築した。
島根の出雲大社や広島の厳島神社、吉野にある後醍醐天皇陵の鳥居、京都嵐山にある渡月橋の橋げたなど、北は宮城県から南は宮崎県まで、いろいろなところから古材が贈られてきた。
この有名な一畳敷の書斎を、武四郎は「草の舎」(くさのや)と呼び、今までの旅の人生を思い出す場所とし、夏は一畳の部屋いっぱいに蚊帳を吊って寝起きをしていた。
武四郎の北海道探検としては第5回目にあたり、このときは石狩川と天塩川を探検した。
天塩日誌によると、武四郎は、4人のアイヌたちとともに、石狩川河口から浜益港を経由して天塩川河口に至り、その後は川筋をたどる形で幌延、雄信内、中川、音威子府、美深と歩き、名寄をベースキャンプにしてさらに本流、支流を探検し、現在の朝日町の源流近くまで到達している。
(武四郎の天塩川探険行程地図)
1587年6月6日に天塩川の河口を出発し、6月23日まで天塩川源流地に留まっていて、7月1日には再び天塩川河口に戻っている。
この時の探険は、武四郎40歳の時の探険で、蝦夷地は5回目となる。
丸木舟2艘に和人1人(武四郎)、アイヌ人4人(アエリテンカ、トセツ、エコレフ、キコサン)が乗り込んで、天塩川を遡上していく。
米、味噌などの食料と縄、ムシロ、ゴザ、鍋などの野営道具を積み、初めての北の大河を進んでいった。
野宿が半分、アイヌ人の家での宿泊が半分、食事は持参したものだけではなく、川で獲った魚や貝も食べている。
(博物館内の武四郎関係の商品や資料)
天塩川探険は旧暦の6月で、今の暦では7月下旬頃のこと、昼間はブユ、ヌカカ、アブ、夜は蚊に悩まされた。
野宿の時は火を焚いたり蚊帳を張ったりして蚊の攻撃を防いだ。
北海道を含めて寒冷地に生息する蚊の怖さは半端ではない。蚊は黒い雲のようになって人間を襲い、人間は全身を刺されてかゆさに飛び上がる。
カヌーイストの野田知佑の北極海に流れ込む大河マッケンジー川での探険物語「北極海へ」を読むと、極北の蚊の凄まじさは想像を絶する程度であるのが解る。
松浦武四郎の丸木舟の旅も、同じようなものだったと推測される。
大便をするのも冗談ではなく命がけとなるので、野田知佑も松浦武四郎も、蚊やブユに刺されないように、川に入って水に浸かりながら用を済ませたと記載している。
武四郎の北海道の探険は、28歳の時が初めての探険、この時は東蝦夷地を調査している。
以下、29歳の時に2回目の探険で西蝦夷地、32歳の時に3回目の探険で千島等の調査、39歳の時に4回目の探険で樺太を調査、武四郎の探険は41歳の時 の6回目の東蝦夷地調査を最後に終了し、江戸に住んだ。
(館内にある武四郎の一畳敷きの書斎の複製)
70歳を前に足腰の衰えを感じていた武四郎は、もう旅をすることは難しいと思ったのだろう、全国の知人に頼んで、各地の古社寺などから古材を贈ってもらい、これを組み合わせて、たった一畳のスペースしかない書斎を自宅に増築した。
島根の出雲大社や広島の厳島神社、吉野にある後醍醐天皇陵の鳥居、京都嵐山にある渡月橋の橋げたなど、北は宮城県から南は宮崎県まで、いろいろなところから古材が贈られてきた。
この有名な一畳敷の書斎を、武四郎は「草の舎」(くさのや)と呼び、今までの旅の人生を思い出す場所とし、夏は一畳の部屋いっぱいに蚊帳を吊って寝起きをしていた。