世界の最長河川中心に探険中!探険家よっしいのブログ

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カテゴリ: 探検家列伝ボルガ川の旅

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                     市内の小公園「白鳥の湖」

 アストラハン(ロシア語:Астрахань アーストラハニ;Astrakhan)は、ロシア南部の都市でアストラハン州の州都。

 人口は502,800人(2004年)でカスピ海低地、ヴォルガ川下流域デルタに位置し、カスピ海岸からは約90km離れてる11の島から市街地は形成されており、
カスピ海で獲れるキャビアの加工地としても知られる。

 1月の平均気温は-10度、7月の平均気温は25度。市街はキーロフスキイ、ソヴィェーツキイ、レーニンスキイ、トルソフスキイの4つの地区に分けられている。
 
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                   アストラハンのクレムリン

 古くから東西の交易の要衝として栄えた。
 ここまでロシア平原を南下すると、もう中央アジアの領域に入る。
 東はカザフスタン、その向こうはモンゴルである。南はカスピ海からペルシャの地、西はグルジアやアルメニアのあるコーカサスの地である。

 アストラハンはチンギスカンの長子ジョチの子バトウがキプチャック汗国を築き、都と定めたサライに近く、キプチャック汗国の最重要港として栄えた。
 
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      レーニンの父、ウリヤノフ氏の家(彼はアストラハンの出身だった)

 その後、イヴァン4(イヴァン雷帝)やステンカ・ラージンの率いた軍勢にも占領されたことがある。
 ここはスラブ民族だけの土地ではなく、モンゴル人やトルコ人などが入り混じった民族の十字路なのである。
 
 アストラハンの名物と言えば、衣類はアストラカン毛皮、食い物は西瓜にキャビアというところであろう。
 アストラカン毛皮は、カスピ海に面したヴォルガ河口都市アストラハン地方原産の子羊の巻き毛の黒い毛皮で、非常に高価なものである。
 
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アストラカン毛皮で作った帽子

 コナン・ドイルの例のシャーロックホームズの「ボヘミアの醜聞」という事件の中で、フォン・クラム伯爵というボヘミアの貴族が着ていた豪華なダブルコートの襟についていたという話が出てくる。

 キャビアは(英語、フランス語:caviar;ロシア語:черная икраチョールナヤ・イクラー)はチョウザメの卵の塩漬け。トリュフやフォアグラと並び世界三大珍味の一つに数えられている。
 
イメージ 4                 トリュフです。美味しそうに見えないけど・・
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              フォアグラですが、美味しそうに見えますか?    
 おもな産地はロシアで、特にカスピ海とアムール川が有名だが、カスピ海はイランにも面しているため、イラン産のキャビアもよく知られている。
 ロマノフ王朝ではキャビアは饗宴の象徴で、惜しみなく振舞われたという。

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 しかし、庶民にとっては、帝政ロシアの貴族がこよなく愛したキャビアは大変な贅沢品で、それを食べることが出来るかどうかで階級が決まるほどの食べ物だった。

 あの有名な豪華客船タイタニック号の最後の晩餐会でも、キャビアはオードブルとして出ている。
 キャビアの次にサーモンのソテー、フォアグラを載せた牛ヒレ肉のステーキなどが出て、バニラアイスクリームと季節の果物の盛り合わせのデザートで終わったという。
 

 久遠(くおん)に轟(とどろ)くヴォルガの流れ
 目にこそ映えゆくステンカ・ラージンの船

 ペルシャの姫なり燃えたる唇(くち)と
 うつつに華やぐ宴が流る。

 
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 ここは、かつて「世界の半分」と呼ばれるほど繁栄した、ペルシャの古都「イスファーハン」のイマーム広場で、ペルシャの姫が沢山いた場所でもある。
 この歌の主人公ステンカ・ラージンは、ドン・コサックの指導者である。

 「コサック」とは「群を離れた者」という意味のトルコ系の言葉で、領主への隷属を嫌って、ロシア南部のドン川・ドニエプル川など大河の周辺辺境へ逃亡してきた農民たちのことで、漁業や海賊行為を生業としていた。(農業は余り行わなかった)
 ロシアの辺境に住む人たち(コサック)の盗賊行為は,その力が国外に向けられている限りロシアの国益とも一致することが多かったのか、ロシア政府はコサックをある程度自由に泳がせるような政策をとっていた。
 ラージンはドン・コサック(ドン川一帯に住んでいたコサック)の大部隊を率いて南に向かい、ペルシャの地方豪族を襲い、彼等の富や「戦利品」として豪族の娘を次々に獲物とした。
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 ロシアは17世紀前半までは彼等をある程度泳がせていたが、大国へと成長し、南方への領土拡大を強めるに連れ、コサックの自治体制を危険視し、これを崩そうとした。

 ステンカ・ラージンの乱は、ロシアがコサックへの締め付けを強め、コサックの掠奪行為を禁圧したことから起きた。貧しい農民を味方に加え、大国ロシアに反逆を起こした。
 1667年に海賊軍隊を率いてトルコ沿岸を略奪、1668年、ペルシア湾岸を襲撃、1670年、ドン地方を占拠、ついでアストラハン・サラトフを占領し、シンビルスクを包囲した。
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 しかし、その年の秋、反乱軍はシンビルスクで敗北し、ステンカ・ラージンは負傷、ドンに逃れたが、部下の裏切りに遭い、あえなく逮捕され、モスクワにて両手足切断の4つ裂きの刑で処刑された。

 ロシアの大地は雄大である。この地を、古くはバイキングに始まりジンギスカンの子孫達チムールステンカ・ラージンナポレオンヒトラー等の征服者が駆け抜けた。

 ボルガ河はロシアの魂とも言える川である。
 源流から河口まで、トベリ、ヤロスラブリ、カザン、ウリヤノフスク、ボルゴグラード、アストラハンと、ロシアの中核となる歴史のある街が次々と現れ、時間の壁を超え、ロシアという国の成り立ちを、垣間見せてくれた。
 河口はカスピ海に注ぎ、その海の向こうはペルシャである。
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             カスピ海の彼方のペルシャの地、イスファーハンの夕日です。
 
 井上靖 シルクロード詩集より 「カスピ海」

 鉛色の海が広がっている。海は渚に座って、七重になって寄せている波の音を聞いていた。

 どこか海とは違っている。もちろん川でもないし、と言って、水溜りであろう筈はない。

 青い空の下にふしぎな水域が広がっている。遠くに蝶鮫獲りの舟が一艘見える。

 
 yoshii  ボルガ紀行から 「ボルガの幻影」

 ロシアの祖となったバイキング達を真似、ボルガ源流から河口まで、3690kmを旅した。

 この河の畔にレーニンが生まれ、この河の畔で、スターリンとヒトラーが戦った。

 この河には、青き狼「チンギスカン」の気配もする。

 そして、ペルシャの姫を抱いたステンカラージンの雄たけびも、はっきりと聞こえるのだ。
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 カスピ海の対岸の地図です。アフリカももう少しだ・・・

 ボルガ河の旅は今回で終了です。長い間お付き合いいただき、ありがとうございました。
 
 
 yoshiiはこの後、最後の河であるナイル河を目指す。
 次回からもご来店ください!!
 

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           ママエフの丘の母なる祖国の像(スターリングラード大攻防戦の記念碑の一つ。) 
 

 ヴォルゴグラードは、ヴォルガ川沿いに開けた海運要衝の街で、ヴォルゴグラード州の州都である。人口はおよそ110万人。

 北緯4842分、東経4431分に位置する。(日本最北端稚内は北緯453114秒。北緯50度だと、樺太の真ん中あたりです。)

 1589年にタタールの襲撃に備えて築かれた要塞から発展した町で、ツァリーツィンの名は「女帝のもの」を意味している。


 ロシア革命後の内戦で反革命勢力に対する勝利に貢献したため、また旧帝国に関する名称を廃止する方針のため、1925年にヨシフ・スターリンにちなんでスターリングラードと命名された。

 この街を有名にしたのは、第2次世界大戦中の1942年夏から1943年冬にかけての半年以上にわたるこの地での独ソ戦で、後に史上最大の地上戦と言われたスターリングラード(現ボルゴグラード)の大攻防戦である。
 
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                       進軍するドイツ兵

 ロシア(ソ連)は広大な国で、近代でロシアの奥座敷まで進軍した軍隊は、フランスの英雄「ナポレオン・ボナパルト」の軍隊、もう一つは、ドイツの「アドルフ・ヒトラー」のナチス軍である。
 しかし、その両方の戦いとも、ロシア(ソ連)の大地の守り神ともいうべき冬将軍の前に徹底的にダメージを受けて、その後の国の崩壊のきっかけとなるのである。

 1812612日、ナポレオンは同盟諸国から徴兵した60万という大軍でロシアに侵入した。
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 しかし、ナポレオン軍は、ロシア軍の広大な国土を活用した徹底した焦土戦術によって苦しめられ、冬将軍に壊滅的な打撃を受け、飢えと寒さのため総退却となった。

 数十万のフランス兵がロシアの大地に散り、無事に帰還したものはわずか5千であったという。

 ドイツのナチス軍の戦いも同様である。

 ナポレオンがロシアに攻め入ってから129年後の1941612日、ドイツは警告なしに対ソ戦に突入した。(ナポレオンのロシア開戦と同じ日に、ヒトラーはソ連に攻め込んだ。)

 ドイツ軍の全兵力の約9割、総勢420万の大軍を率いて、ソ連に攻め込んだ。

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                             ナチスヒトラー総統

 不意をつかれソ連軍は、レニングラードを包囲され、モスクワへも進軍されたが、ソ連軍は、ここでも最大の援軍である冬の到来とともに逆襲に転じ、各地の戦線で勝利を収め攻勢をかけた。

 1942年、ヒトラーは、ソ連の独裁者スターリンの名を付けたヴォルガ河の水運の要衝工業都市「スターリングラード」を手に入れるため、ドイツ第6軍の将兵30万を送り込む。

 これに対して、スターリンは後の首相であるフルシチョフを派遣し、スターリングラードを死守する作戦に出た。
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                                               ソ連第2代最高指導者 スターリン

 この戦いでは、独ソ双方とも膨大な被害者が出た。

 ドイツ軍兵士30万のうち、戦後故郷に生きて帰ったものは僅か5000名程だったいう。(20万は戦死や飢えと寒さによる凍傷などで死亡、捕虜になりシベリヤに送られた9万の兵士のうち、生きて帰れたのは5000名程だったのだ。)

 ソ連市民やソ連軍の犠牲はもっと多く、この悲惨な戦いの犠牲となったのは100万といわれている。


 

 ヴァシリ・グレゴリーヴィチ・ザイツェフ(ヴァシーリイ・グリゴーリエヴィチ・ザーイツェフ;Васи́лий Григо́рьевич За́йцев、1915323 - 19911215)は、第二次世界大戦中活躍したソビエト連邦の狙撃兵。
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                  ヴァシリ・グレゴリーヴィチ・ザイツェフ

 19431月に目を負傷するまでスターリングラード攻防戦で活躍、257人の敵兵を殺害した人殺しのプロである。

 戦争は人殺しを英雄にする。(彼を主人公にした映画が2000年に作られ評判となった。)

 彼は、ソ連政権下でソ連邦英雄、ヴォルゴグラード名誉市民などの称号を得、その後も工場の管理者などを歴任し76歳まで生きた。

 戦争相手のヒトラーは、ポーランドに建設した強制収容所「アウシュビッツ」で、毎日数千人のユダヤ人をガス室で虐殺し、その総計は延べ150万人を数えた。
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              シャワー室に見せかけたガス室。一度に数百人が殺された。

 この収容所では、毒ガスによって殺戮した死体から出た脂で石鹸を、骨からは肥料を、そして髪の毛からは布地を作っていたという。
 20世紀は戦争の世紀といわれ、世界大戦を2度も経験した世紀である。戦争、革命、内戦等での死亡者は17千万とも言われている。
 ロシアやブラジルの総人口に匹敵する人が、20世紀に戦争などの暴力で無くなった。

 

 昨日はクリスマスだったが、30万のドイツ軍兵士達のスターリングラードでの最後のクリスマスの話が伝わっている。
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                   激戦の跡として有名な製粉工場「パブロフの家」

 ヒトラーからの脱出の許可は無く、最後の援軍の救出作戦が失敗し、30万に及ぶ包囲された将兵の運命が決まった日、それは19421224日のことだった。
 
 ドイツ軍最高指揮官パウルス将軍は天を仰ぎこう言った。「アッレス・カヴート(もう、何もかも終わりだ…)」
 
 スターリングラードのドイツ兵達は、ほとんどが穴を掘ってその中で生活していた。彼らには兵舎すらなく、もちろん暖房などなかった。外気はしばしば零下50度を記録した。

 彼等の中に、防空壕の野戦病院に勤務するクルト・ロイバーという神学と絵の才能に恵まれた36歳の軍医がいた。

 彼の友人はアフリカにて、その名をアルベルト・シュヴァイツアーと言った。

 彼は希望もないままクリスマスを迎えようとしている兵士達のために、大きな紙を探し、 押収したロシアの地図の裏に、聖母マリアと聖書の言葉を書いた。
 
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 これが後に「スターリングラードの聖母」と言われるようになった肖像画。(原題は「塹壕の聖母」と言われている。)

 絵の傍らの言葉はヨハネ伝よりの引用。「光・命・愛」とある

 戦場の彼等は、小さなパンのかけらを分け合い、雪を溶かした水を暖めて飲み、小さなろうそくを灯し、かすれた声で賛美歌を歌い、彼等の神と束の間の時間を過ごした。

 この日、この街でクリスマスを祝った彼等のほとんどは生きてかえることはなかった。


 ここで、問題です。
 明日死ぬ運命としたら、やりたいことは?
その他の場合、具体的に書いてね。
1 恋人と会う 
2 思い切りお金を使う 
3 美味しいものを腹いっぱい食べる 
4その他

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                ソビエト社会主義共和国連邦の産みの親 レーニンの像 ↑

 
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世紀の歴史に七十数年もの間強大な影響を与えたソビエト社会主義共和国連邦はロシア史上最大で最強の国家であった。

 東はベーリング海、西はバルト海、北は北極海、南は黒海・カスピ海に臨み、その領域に住む15共和国の人民を共産主義という思想で束ね、ユーラシア大陸の北半分を、完全に掌握していた。

 そのソビエト共産主義の産みの親が、ウラジミール・イリイッチ・ウリヤノフ、通称レーニンである。
 
 シンビルスクはレーニンの生まれた街である。ソビエト時代、この町の名はレーニンの本名にちなんで、ウリヤノフスクと言われていた。以後レーニンに敬意を表し、この街を以前の名称「ウリヤノフスク」で呼ぶ。
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                       ボルガ夕景(ウリヤノフスクにて) ↑


 ウリヤノフスク(Ульяновск, Ulyanovsk)はボルガ川に臨み、人口は60万人ほどの街である。

 レーニンの生地として知られ、レーニンは17歳までここで暮らした。またウリヤノフスクは1671年にステンカ・ラージンの乱で戦場となった。

 この街にはロシア2月革命後臨時政府首相になったケレンスキーや、文学者として名高いイワン・ゴンチャロアが生まれている。
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                         夜のウリヤノフスクの街風景  ↑


 ウリヤノフスクはかっては、年間100万を超える人々がソ連全土から訪れた革命の聖地で、街中がレーニン一色で塗られていた。

 レーニンの評価は後継者スターリンによって神格化され、ソビエト時代はキリストのように扱われ、ソビエトの諸都市にはレーニン像やレーニンの名称を付けた建物や通りが、どこの街にも建設された。(サンクトペテルブルグはソビエト時代はレニングラードと呼ばれた。)

 ただ、ソビエト崩壊を経験し、ベルリンの壁崩壊も経験した21世紀に生きる人々にとっては、レーニンの正体がやはり見えて来るのである。


 レーニンは、マルクス主義を学び、社会主義社会が資本主義社会の後に理想社会として現れることを信じ、それを実行した多くのマルクス主義者の1人だが、結局彼はテロリズム(恐怖政治)を武器に国民を服従させようという恐怖政治家でしかなかった。

 レーニンは、「革命という至高の目的を実現するためならいかなる手段を使うことも正当化される」と信じた人物だった。
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 (レーニンは、1917年のボリシェヴィキ政権が誕生する少し前にヘルシンキに住んでいた。写真は、そのときの住居の様子 ↑ )


 亡命先のフィンランドから戻り、ロシア革命10月(革命)によって神にも匹敵する無制限の絶対権力をふるう地位を手に入れた彼は、19171220日チェーカー(秘密政治警察)創設から、192212 16日の第2回発作による最高権力者活動の事実上の停止までの5年間に、数百万人もの自国人を粛清という名で殺戮した。


 最高権力者であるレーニンが『人民の敵』『反革命分子』と判定した自国民にたいし、『邪魔者は殺せ!』という感情をさらけ出した『殺人指令』の例である。

 『反抗的な富農たちのすべての穀物、私有財産を没収せよ。富農の首謀者を絞首刑にせよ。金持ちの中から人質をとり、これを軟禁せよ』

 『コサック上層部全員を根絶やしにする闘争を唯一正しいものであると認めねばならない。裕福なコサックに対して大量テロルをおこない、彼らを一人残らず根絶やしにすること。穀物を没収し、余剰すべてを指定の場所へ運び、引き渡させること。完全武装解除をおこない、武器引渡期限以降に武装の所持が発覚した者は、すべて銃殺すること』
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ポスター「君は義勇兵に登録したか?」 (このポスターによって、赤軍に参加、殺人集団の先兵となった若者の数は知れない。)   ↑
    

 レーニンの後継者であるスターリンも同様なことを行い、共産主義という名のテロリズム国家として誕生したソ連は、1991年の崩壊までその本質的な体質を変えることなく20世紀最強の国家の片割れとして存在した。

 中国共産党の毛沢東も程度の差はあれ、レーニンやスターリンと同様なことをした。ロシアにはイワン四世という大変な暴君がいたが、見方によってはレーニンもイワン四世並みということも言える。

 ロシアの皮肉屋の中にはこんなことを言う人がいる。「ロシア最大の悲劇は、レーニンが誕生したことだ。そしてもっと悲劇となったのは、彼が死んで神様になったことだ。」
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             レーニンの子ども時代、こんな可愛い子がレーニンになるとは・・・・・) ↑
 
 

 
 そのレーニンによるロシア革命の標的となったロマノフ王朝、そのツァーリのロマノフ家は、ノブゴロド公国建設によるルーシの時代よりのロシア・ツァーリだったリューリク家の外戚であった。
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 ロマノフ朝はミハイル・フョードロヴィッチ・ロマノフが1613年にリューリク朝後の動乱期を制して初代ツァーリに即位し、18代ニコライ2世が廃位させられる1917年まで続いた。

 ロマノフ家の経済力はハプスブルク家を超えているとも言われ、世界一の大富豪でもあった。

 主な財源は征服地シベリアからの毛皮・木材の貿易、中央アジアの植民地化による市場確保であった。

 ロマノフ朝(ロマノフちょう)は、ピュートル1(ピュートル大帝)のとき西洋化・近代化を進めヨーロッパの列強に加わり、その後勢力を拡大してヨーロッパから沿海州までを支配し、ペトログラード(現在のサンクロペテルブルグ)に遷都した。
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              ペトログラードにあるピュートル1(ピュートル大帝)の夏宮殿  ↑


 その後宮廷革命でドイツ人のエカテリーナ2世が即位する。この過程でロマノフ家にはドイツ系の血が濃厚となった。

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   (女帝エカテリーナ二世の時代、ロマノフ王朝は爛熟期を向え、世界一の財力と権力と手に入れた。 ↑)

 ニコライ二世はロマノフ朝第14代にしてロシア帝国最後の皇帝。

 アレクサンドル3世とその皇后マリア・フョードロヴナ(デンマーク王クリスチャン9世の第二王女)の第一皇子として生まれる。皇后は、アレクサンドラ皇后。皇子女には、オリガ皇女・タチアナ皇女・マリア皇女・アナスタシア皇女・アレクセイ皇太子がいる。

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 末子のアレクセイ皇太子は不治の病である血友病患者であり、それを治すため宮廷に呼ばれたのが祈祷師「怪僧ラスプーチン」である。


 この一家は、レーニンの命令を受けたチェーカー次席のヤコフ・ユロフスキー率いる処刑隊により、1918717日、皇帝一家はウラル山脈中部の大都市であるエカテリンブルグにあったイパチェフ館の地下室で全員銃殺され、近くの村に埋められたというが、遺骨は行方不明となった。

 そしていつからか、四女のアナスタシアだけは実は暗殺を逃れて西側へ脱出したという伝説が囁かれ始め、謎のアナスタシアが登場するのである。
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                            アナスタシアと家族写真 ↑ 
   

 謎のアナスタシア、アンナ・アンダーソン(Anna Anderson1900? - 198424日)は、ロシア皇女アナスタシアに生涯化け続けた東欧生まれのアメリカ人女性で、歴史上おそらく最も有名な王族偽装者の一人である。
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             謎のアナスタシア、アンナ・アンダーソン(アメリカ帰化前後)↑

 1920年ドイツのベルリンで、自殺未遂者として精神病院に収容されたアンダーソンは、自分はロシアから処刑を逃れ脱走してきたアナスタシアであると周囲を説得。彼女には、赤の他人を説得する天性の才能があり、耳の形や足の異常形態などアナスタシアと酷似する身体的特徴もあったため多くの支持者を得た。


後日談
 1978年にエカテリンブルクの歴史家のグループが皇帝一家のものらしい遺体 (900個の骨片や歯) を発見したが、当時のソ連当局による没収や弾圧を恐れ、発表されたのはソ連が崩壊した後の1991年だった

 皇帝一家の明らかな身体的特徴は不明だったが、法医学者が散乱した骨片から年齢、性別、身長を推定し、写真などから推定した彼らの身長と比較してマリアとアレクセイを除く皇帝一家9人(従者4人含む)の遺体である可能性を示唆した。
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                              皇帝一家の骨  ↑

 19941996年に英国法科学局のギル博士らが皇帝一家のものであると疑われる遺骨からDNAを抽出し分析し、アナスタシアと主張していたアンナ・アンダーソンについても1979年の手術時に摘出された小腸の一部が組織標本として保存されていたので、そこからDNAを抽出し分析した。
 
 検査の結果、この遺骨がマリアとアレクセイを除く皇帝一家9人(従者4人含む)ものであることを識別し、アンナ・アンダーソンが皇帝一家とはまったく縁がないことも識別した。
(
アンナ・アンダーソンは実際はポーランドの貧農の娘だった。でも、自分では死ぬまでアナスタシアだと心から信じていたという。名優と言っていいのではないかな。)

ここで、問題です。
 ロマノフ王朝で1人好きな人を上げるとしたら次の3人から誰を選びますか? 理由も書いてね。
 
1 ピヨートル大帝
2 エカテリーナ二世 
3 アナスタシア

いつものように最後に問題があります、答えてね・・

 
 カザンタタルスタン共和国の首都。人口の半分はタタール人であり、彼等はムスリム(イスラム教徒)でもある。
 
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                        カザン中心部の白いクレムリン  ↑

 ここはアジア人種の飛び地であるせいか、ロシアでも珍しいイスラム的な街並みが特徴、 また人々も欧米と同じアルファベット文字を使う習慣があり、街角にもアルファベット文字の表記が目立つ。

 
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                        カザン中心街、バウマン通り ↑

 ロシアにありながらも独特の雰囲気の漂うカザンの街、そして共和国東部一帯には油田が広がる。

 ジンギスカン率いるモンゴル帝国は、かつてアジアとヨーロッパに、広大な領土を持ち君臨した。

 ジンギスカンの孫のバトウの代には、ロシアを征服、ポーランド・ドイツ軍を撃破、西ヨーロッパにも侵攻を始めた。(モンゴル族の一部族の韃靼(だったん)族の先祖とされる中央アジアのアルタイ山脈を根拠地にした遊牧民族突厥(とっけつ)も、6世紀から7世紀にかけて、東は中国の北方から西はカスピ海にまで勢力を伸ばしたことがある。)

 皇帝オゴタイ・ハン(ジンギスカンの子)の死去により、バトウは西ヨーロッパから撤退、ボルガ河口のサライを首都としてキプチャク・ハン国を築いた。


 その後キプチャク・ハン国は、カザン汗国アストラハン汗国に分かれ、カザン汗国は首都をカザンに置き、アストラハン汗国は首都をアストラハンに置いた。

 1552年、ロシア(モスクワ大公国)のイワン雷帝に併合されるまで、カザンはジンギスカンの末裔(タタール人)の支配する土地であった。
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 カザンの名前の由来だが、ここに最初に来た汗(王)が河畔で食事中、美少女を見かけたが、その少女があまりに美貌だったので、思わず鍋(モンゴル語で鍋のことをカザンという)を落とした。

 それで、汗はカザンとこの地を名づけたという。その美少女はスユンベキという名で、後に汗の妃となり、カザンの空に聳えるスユンベキの塔を、クレムリンの中に造らせたのだった。

 
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              カザンカ川から見たスユンベキの塔(一番高い7重の塔) ↑
 


 カザンから、ボルガ河を200km下ったところにボルガールという街がある。
 
 ここに、7世紀から13世紀まで存在したボルガ・ブルガル国の遺跡がある。

 ボルガ・ブルガルという国は、実はバルカン半島の付け根に位置するヨーグルトで有名なブルガリアと兄弟の国だった。

 7世紀の後半、フン族の末裔でチュルク語系のブルガル族は、アゾフ海からボルガ川にかけて強大な国を作っていたが、東進してきたトルコ系ハザール人に追われ、ブルガル族の一派は南下して現在のブルガリアの基礎を築き、もう一派は北上してボルガとカマの合流点南にボルガール汗国を築いた。(ボルガの名は、ボルガール汗国から由来している。)
 
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   ボルガール汗国の当時の交易品(クロテン)、ロシアは毛皮を求めて、 シベリアへ向った歴史がある。 ↑


 タタルスタン共和国の対岸のチュバシ共和国に住む住民の80%は、このボルガール汗国の末裔の人々であるとされている。
 
 ロシアには160もの少数民族が生活しているが、中国のチベットに似た民族問題を引き起こしている地域も沢山ある。

 ここカザンも、ムスリム(イスラム教徒)のタタール人が人口の半分を占めている難しい地域で、1990年代には、チェチェン化の危険もあったところである。

 
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              民族の垣根を超えてカザンカの岸辺でみんなで水浴 ↑

 「母なるボルガ」の名称のもととなった史跡を持つタタルスタンの首都カザン、トルコ系ハザール人やモンゴル系タタール(韃靼)人、そしてスラブ系ロシア人に支配された歴史を持ち、地域として独立しないままにロシア共和国の成員として今も存在しているのである。

 
 
 カザンにはレーニントルストイゴーリキー、それに非ユークリット幾何学の創始者である数学者のニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキーなどのゆかりの大学、国立カザン大学がある。
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                          カザン大学 ↑

 建物の正面には17歳の若きウラジミール・イリイッチ・ウリヤノフ(レーニンの本名)の銅像がある。
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 この大学に学んだ3名の偉人を紹介する。 

 まず一人目は革命家、ウラジミール・イリイッチ・ウリヤノフ(レーニン)
 
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                      レーニン  ↑

 レーニンは、ボルガ河畔のシルビンスク(今のウリヤノフスク)の生まれで、教師で地方の名士でもあった父と医師の娘であった母との間に、3番目の子として生まれた。

 1887年秋にカザン大学に入学したレーニンだが、教室を占拠封鎖するという事件を起こし、4ヶ月ほどで放校処分になっている。

 彼が学んだ教室はきちんと保存されていて、彼がいつも座っていた窓際の左端の列の前から3番目の席には、花が置かれており、今は誰でも座ることが出来る。

 僕は、17歳のウラジミール・イリイッチ・ウリヤノフの座った席に座り、最愛の兄アレクサンドルが皇帝の暗殺事件に巻き込まれ絞首刑になった後、既にロシア革命を夢想しながら窓の外を眺めていただろう、その頃の彼の姿を想像した。(彼は54歳で死んだ、革命家としては長生きだよね。)

 二人目はロシアが誇る文豪、レーヴ・ニコラエヴィチ・トルストイ

 
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                        トルストイ  ↑

 トルストイ、レーヴ・ニコラエヴィチはヤースナヤ・ポリャーナの名門貴族の4男として生まれ、1844年に外交官になる志を立てカザン大学東洋語学科に入学した。しかし翌年進級試験に落ち、有名無実で悪名の高い法科に転入した。だが、この学科は2流の外人教師ばかりで、47年、彼は学位を取らないまま退学した。

 彼は後に、「戦争と平和」、「アンナ・カレーニナ」など世界文学有数の長編小説を生み、あらゆる秩序を批判し、暴力を否定し、トルストイ主義と呼ばれるキリスト教的な人間愛と、道徳的自己完成を説いた。(彼は82歳まで生の意味を問い続けながら真摯に生きた。)

 34歳の頃、モスクワの宮廷医の2女だったソーフィヤ・アンドレーエヴナ・ベルスという16も年下の女性と結婚、ソーフィヤは美貌、聡明で意志の強い女性であり、生涯にトルストイとの間に13人の子をなした。(13番目の子供は60歳のときの子ども、精力的だよね。) 


 3人目は数学者、ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキー

 
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                      ロバチェフスキー  ↑

 ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキーはロシアの数学者である。
 ニジュニー・ノヴゴロト(新しいノヴゴロトの意味)の生まれで両親はユダヤ系。
 カザン大学に学び、21歳で同大学教授となり、1827年から1846年には学長も兼ねていた。

 1829年,36歳のロバチェフスキーは紀元前3世紀から二千数百年以上絶対の真理として誰も疑わなかったユークリット幾何学の第5公準(平面状の直線外の1点を通ってその直線に平行な直線は1本だけ引ける。)に疑問を抱き、「平面状の直線外の1点を通ってその直線に平行な直線は無数に引ける」という公準もなりたつとして、「近代数学」の展開の扉を開けた。

 この流れの物理への応用は、アインシュタインの「一般相対性理論」をも生み出した。

 彼は非ユークリッド幾何学の1つである双曲幾何学を築いた。双曲幾何学はロバチェフスキー幾何学とも呼ばれている。(62歳で死んだが、彼が生涯を賭けて求めたのは、たった1行の真実だった・・・)

 

ここで、問題です。
女性の場合あなたが結婚するとしたら、次の誰と結婚したいですか。
男性の場合は友達を選ぶとしたら誰を選びますか。理由も書いてね。
 
1 レーニン
 トルストイ 
3 ロバチェフシキー 

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ボルガ川河川地図
 
 
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               ヤロスラヴリ河港風景  ↑(最後に問題ありです。)
 ヤロスラヴリは、モスクワの北東約260キロ、大河ヴォルガのほとりに発展した、教会や修道院などの歴史的建築物に恵まれた美しい街で、この街のスパスキー修道院は、古代ロシア唯一の文学的傑作「イーゴリー戦記」の写本が発見されたことで有名
 
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                     ここが、スパスキー修道院 ↑

 この街はまた、ロシアの精神文化や建築、装飾、芸術などの根源的文化遺産が残る歴史都市を賞讃する「黄金の環」という名を付された都市郡の一で、この由来は、ロシアがまだ小さな都市国家の集合体であった時代の首都であった都市を線で結ぶと環状になることから命名されたものである。

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                        歴史地区の風景  ↑

 「黄金の環」を形成する都市郡は、ヤロスラヴリの他、キエフ、ノヴゴロド、モスクワ、ウラジミール、 ロストフ、スーズダリ、ニージュニー・ノヴゴロド、カザンなどである。

 街の起源は、 ロストフにいたキエフ・ルーシ時代の最盛期を築いたキエフ公国の大公ヤロスラフ賢公(978?~1054)によって、11世紀初頭に街が建設されたことに始まる。

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                       河港付近の街路風景 ↑

 伝説によれば、ヤロスラフ公がロストフ地方のヴォルガ川沿岸で狩りを行い、従士団から離れて一人になってしまい、コトロスリ川がヴォルガに流れ込む合流点にまでやってきた時、ヤロスラフは一頭の熊に襲われた。

 しかし、逆に手にした斧でこれを打ち殺し、公は事件を記念するため熊を倒した場所に教会を建て、自分の名を冠した街「ヤロスラヴリ」を創らせたという。
 
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                    イリヤ・プロロク教会(この教会が伝説の教会?)↑

 実際にこの辺りは「熊の土地」と呼ばれており、熊は異民族の支配する世界の象徴だった。

 ヤロスラヴリなど北東ルーシ原住の人々は、ハンガリー人などと祖を同じくするフィン・ウゴル系の人々。

 先住の異教徒の住む北東ルーシの世界に、植民者として入ってきた東スラヴ人たちは、先住民族を熊に例え、こんな伝説を創ったのだろう。

 ヤロスラフ公は異教徒・異民族を力で改宗させ、この地をキリストの土地に変えて行った。
 
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                               ヤロスラフ公 ↑

 13世紀になるとヤロスラヴリはロストフ・スーズダリ大公国最大の都市となる。

 そして1218年にヤロスラヴリ公国の首都として独立するが、 しかし間もなくタタール人(モンゴル帝国)が侵入し、およそ150年間、異教徒であるタタール人に支配される。

 タタール人支配時代や、周辺の強敵だったカザン・ハン国や アストラハン・ハン国との攻防の時代などを経て、19世紀中頃からはロシア有数の重工業都市としても発展し今に至っている。

 
 


 ここで、ヤロスラブリが生んだ、現在存命中の宇宙規模のヒロインを紹介。
 
 ヤロスラブリは、宇宙時代の幕開けとなった1960年代、女性として世界で初めて宇宙に飛び出したヴァレンチナ・ヴラディミロヴナ・テレシコワ(キリル文字:Валенти
́на Влади́мировна Терешко́ва193736-)を生み出した土地である。
 
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                               テレシコワさん ↑

 彼女は、1963616日にボストーク6号に搭乗し、71時間弱(34)の飛行で地球を48周し、史上初の女性宇宙飛行士となった人物。

 ヤロスラブリ紡績技術学校を1960年に卒業した工場労働者出身のテレシコワは、州の航空クラブに属していたのがきっかけで、宇宙飛行士候補となり、短期の飛行訓練を受けたのち、宇宙に飛び出した。

 彼女のコールサインはチャイカ(カモメの意、キリル文字:Ча
́йка)であり、"Я чайка"(ヤー チャイカ。「ヤー」はここでは「こちらは」の意味だが、チェーホフの戯曲『かもめ』の中で「私はカモメ」の意味で何度も登場する台詞でもある)が、女性宇宙飛行士が宇宙で発した最初の言葉となった。

 だが、彼女の宇宙飛行は、「私はカモメ」というような優雅な感覚のものではなく、ほとんどパニック状態での宇宙体験という大変なものだったようである。
 
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                            パニックで目もうつろ・・・  ↑

 無線機の扱いを間違え交信が出来なくなったり、暴れて窓ガラスにヒビを入れ、挙げ句の果てには宇宙船の設計者であるコロリョフを呼び出し、罵声を浴びせたりした。(彼は「ロシアのロケット開発の父」とも称される逸材で、世界最初の人工衛星“スプートニク”を製作したのも彼とそのチーム。)

 619日、テレシコワは無事に帰還する。この時も、大気圏突入にあたってのチェックがいっさい彼女から送られず、地上はハラハラしっぱなしだった。

 
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 結局、彼女の一連の振る舞いにより「女は宇宙には向かない」という印象を与え、数年後、女性飛行士チームは解散、彼女自身も、二度と飛ぶことは無かった。(でも、単身飛行で命がけのチャレンジをした当時「26歳のかもめさん」は、やはり真の探検家だったと、僕は確信している。)

 
 

 ヤロスラブリ市の近郊のカラビハ村は、民衆詩人プーシキンの後を受け継いだ、19世紀ロシアの詩人「ニコライ・ネクラーソフ」の故郷。(名前どおり、ネクラな人です。)

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                    サンクトペテルブルグの公園の中にある、ネクラーソフの像 ↑


 毎年、この村では、内外の文化人を招き、ネクラーソフをたたえる国際式典「ネクラーソフ祭り」を開催する。
 
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                     祭りは、ここに似た自然の美しい場所で開かれる。 ↑

 彼はこの村の地主の坊ちゃまとして生まれたが、ペテルスブルグ大学の受験失敗を期に父からの仕送りを絶たれ、極貧の青春時代を経て、創作活動への道に入り、ロシアを代表する民衆詩人・革命詩人となった。

 はげしく はげしく わたしは泣いた
 ふるさとの 河のほとりに
 立ったその朝
 そしてはじめてこの河を
 奴隷とかなしみの河と呼んだのだった。

   (「ボルガのほとり」1860年作、この詩に、ネクラーソフの本質が見えている。)

 詩人としての素質は今でも議論の余地があるということだが、ジャーナリストとしてのセンスは抜き出ていて、人気雑誌「現代人」「祖国の記録」の編集人等として長いあいだ文壇の中心にあって活躍した。

 この「現代人」という19世紀ロシア最大の雑誌を舞台として,ロシア最初の職業批評家ベリンスキーが生まれ、『猟人日記』のツルゲーネフ、戦争と平和のトルストイ、「平凡物語」のゴンチャロフなどが巣立っていく。

 ネクラーソフは「罪と罰」「カラマゾフの兄弟」などを書いたドストエフスキーを見出したことでも有名で、民衆詩人として既に名を成していた頃、持ち込まれたドストエフスキー(当時26)の処女作「貧しき人々」の原稿を読んで、感激のあまり、深夜にもかかわらず、ドストエフスキーの下宿を訪ねて、いきなり彼を抱擁し、その天分を賞賛したという。  (この話は、貧しい下級官吏のジェーヴシキンのあわれな恋の幻想がテーマ)

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                           ドストエフスキーの肖像画 ↑


 この他にも、「誰にロシアは住みよいか」など貧しい民衆に深い愛情を注いだ作品を書いたネクラーソフだが、彼の私生活は一風変わっていて、サンクトペテルブルグのイワン・パナーエフ夫妻の家に、夫、妻、妻の愛人(ネクラーソフ)という関係で、当時としてはめずらしくない関係で、しかも最も有名な関係として、三人で住んでいた。

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               サンクトペテルブルグのネクラーソフ通り公園の中にある、ネクラーソフの像 ↑
 
 この生活は10年も続いたという。

 イワン・パナーエフの死後、ネクラーソフは彼の妻と別れ、女性関係は乱れたようだが、その後34歳も年下の女性ジーナと結婚し、その妻に看取られながら生涯を終える。

 僕は、ネクラーソフの本質は、支配するものとしての貴族・地主階級の子弟の、支配されるものとしての奴隷・労働者(ナロード・民衆)階級に対する原罪意識から発生していると考えているが、この考え方によれば、罪が許されるのは、支配される階級による革命の成就しかありえない。結果として、ナロードのための、自己崩壊が前提となるのだが。

 ネクラーソフの長編叙事詩「デカプリストの妻」は、1825年1214日、皇帝の専制と農奴制に不満を持つ貴族の若い将校たちが起こしたデカブリスト(ロシア語で12月のこと)の乱の史実に基づく、夫の闘いの意義を理解し夫のシベリア流刑に付き添った彼等の妻たちの、住みなれた安楽な貴族の生活を捨ててシベリアへたどりつくまでの物語であるが、貴族という生活の放棄の物語でもある。

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               シベリア ペトロフスキー・ザヴォート駅のデカプリスト記念碑 ↑

 こうして、ロシア革命の思想的な下準備は、ネクラーソフや彼の仲間によって、19世紀の帝政ロシアの内部で醸成されていく。(ネクラな話になって、ゴメンネ。)

ここで、問題です。
下から好きなロシア作家を1人選んでください。理由も書いてね。
1 ネクラーソフ
2 プーシキン 
3 ドストエフスキー 
4 トルストイ

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