世界の最長河川中心に探険中!探険家よっしいのブログ

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カテゴリ: 探検家列伝 ナイル川の旅


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                セネシオの繁茂するルェンゾリ(月の山)

 

 ナイル河には三箇所の源流地点がある。
 一つ目は、1862年に、探検家スピークが発見したビクトリア湖から流れでる川の最上流地点である。そこにはナイル河源流の碑が建てられている。この地点は、一般的にはナイル河の源流として大多数の人々に受け入れられている。
 
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                        ↑ナイル河源流の碑
 
 歴史的には19世紀まで、プトレマイオス(2世紀)の古地図に記された、月の山脈(Lunae Montes)から流れ出した小川が2つの湖にたまり、そこをナイルの源流とした学説が、二つ目の源流地点として長い間多くの人々の間で信じられていた。
 
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                   ↑プトレマイオス(2世紀)の古地図

 現在では、ウガンダとコンゴの国境に位置するルェンゾリ山群がプトレマイオスの記した月の山脈(Lunae Montes)であるとされている。
 二つ目の源流地点(ルェンゾリ山群)は、探検家スタンリーによって1889年発見された。

 三つ目は、ビクトリア湖に流れ込む川にこそ源流があるとしてビクトリア湖流入河川中最大の川「カゲラ川」を遡上した探検家カントによって発見された。
 そこは、カゲラ川支流「ルヴィロンザ川」の源流地帯、ブタレ近郊のルカララの沢、そこには「ナイルの源」と記され小さなピラミッドが建てられている。
 
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                  ↑赤マーク点がブタレ近郊のルカララの沢

 この地点から地中海河口までが6695kmとなり、ナイル河の河川延長距離の最源流計測地点となっている。
 

 
 一つ目の源流は、先回踏破した。
 残る二つの源流を、今回は目指したい。
 ナイル河2つ目の源流であるルェンゾリ山群は、万年雪の氷河を頂く山である。
 
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                   ↑万年雪のルェンゾリ山頂付近

 ルウェンゾリはキリマンジャロ山とケニア山に続き、アフリカ第3の高峰。
 この山地は、寒気と豊富な降水量で出来た広大な氷河があり、ここから流れ出る水により、赤道直下にもかかわらず、毎年豊かな実りがもたらされていた。
 しかし、地球規模の温暖化の影響で、氷河の面積は20世紀の間に84%も縮小、氷河は十数年以内に消滅してしまうと予測されている。

 ルウェンゾリ山群の麓に、バコンジョ族(人口40万ほど)やバアンバ族(人口2万ほど)と呼ばれる先住民が住んでいる。
 
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                     ↑髪を結いあうバコンジョの女たち

 豊富な食料のもと、彼らなりの豊かな生活をしていたが、氷河の縮小は、長期間に及ぶ干ばつをもたらし、作物生産量のが減少による飢饉(ききん)が多発、急激な温暖化は生態系を歪め、高地でのマラリア感染まで広めた。
 バコンジョの宇宙論では、雪はナズルル(Nzururu)と呼ばれ、神である。
 この神の子がキタサンバ(Kitasamba)で、氷河で覆われた山の峰に住み、自然環境とバコンジョ族の生命を支配する巨大な力となって君臨している。
 ここでは、バコンジョ族が欧米文化を取り入れ、伝統的な習慣を忘れていったことにキタサンバが激怒、その結果氷河の後退が起きたと考えられている。
 
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                          ↑減少する氷河

 実際には、急激な人口増加による大規模な森林破壊が最も大きな原因と考えられている。
 ツチ族とフツ族の紛争によりブルンジ、ルワンダの難民が大挙してこの地になだれ込み、樹木は薪となり、動物は食べ物となり、赤道直下の奇跡にも似た豊かな土地に、飢餓が日常的に蔓延した。
 
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               ↑紛争により大量殺戮されたフツ族の頭蓋骨の山
 

 日本漫画界の神として君臨した手塚治虫の代表作に『ジャングル大帝』というのがある。
 白いライオンとしてナイル源流域に君臨した「ジャングル大帝レオ」、あの作品の舞台となったのが実はルェンゾリ(作品中には、一年中雪に覆われたムーン山として登場)。
 
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                  ↑「ジャングル大帝レオ」の雄姿

 レオは物語のラストで、探検隊の道案内を引き受けてムーン山へ登った。
 このレオにも似た王国が、かって、ここにあった。
 バコンジョ族やバアンバ族からなり、独立宣言までした「ルウェンズルル王国」だ。
 
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         ↑赤がトロ王国、緑の枠に囲まれた部分がルウェンズルル王国

 ルウェンゾリとは「雨の山」という意味だが、ルウェンズルルとは「雪の山」という意味。 神の子「キタサンバ(Kitasamba)」の復活である。
 「ルウェンズルル王国」はウガンダとトロ王国からの独立を宣言、1963年2月13日から1982年8月15日まで独立戦争を行った。(アミン大統領時代のこと。)

 ナイル河二つ目の源流地は、絶対に行きたい場所だった。

 ウガンダの首都カンパラから登山基地の町カセセへ、そして登頂出発の地となる「イバンダ村」に到着した。
 
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                      ↑イバンダ村の子どもたち

 「イバンダ村」は山麓に点在するふつうの村で、バナナやキャッサバを育て、牛や山羊(やぎ)などの家畜を追う暮らしをしている。
 登山者にはガイドの雇用が義務づけられ、バコンジョの貴重な現金収入となる。
 僕の現地ポーターは、現職教師のエレナ・ピーター34歳、ひとりの妻と3人の子持ちだ。
 飄々として、それでいて頼りになった。

 僕はジャングル大帝のレオを気取り、月の山の頂きを目指し、相棒のピーターと登山を開始した。
 4日目、彼と、あたり一面コケと6mにもなるヒースで覆われた、太古の森のような風景の、泥沼の熱帯雨林を抜ける。
 
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                    ↑こんな感じの森が続いた・・・

 5日目、突然ジャイアントロベリアが眼前に出現、別世界のような湿原風景となった。
   
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                       ↑ジャイアントロベリア

 更に翌日は、ジャイアントセネシオが登場し、幻想の世界に迷い込んだかと真面目に疑う程の桁外れの風景の中、ブシュク湖畔に到達、ブジュク小屋に泊まった。(ここまでで6日かかった。)
   
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                       ↑ジャイアントセネシオ

 翌日は、エレナ氷河の末端から流れ出る、ナイル河最初の一滴となる地点に辿り着き、最源流の大河の一滴を一気に飲み干した。美味かった。(ナイル河第2の源流を制覇!!)
  
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                        ↑エレナ氷河の末端

 その日はエレナ小屋に泊まり、翌日、最高峰のマルガリータ峰(5109m)に登頂した。
 
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                      ↑マルガリータ峰頂上です。

 頂上に、ルウェンズルル王国の旗を立ててやった。
 
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            ↑白丸は雪を表し、お猿さんは「不可侵の領土」を象徴する。

 プトレマイオス時代からの憧れの山を、とうとう制覇した。
   
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                     ↑マルガリータ峰からの絶景

 

 
 三つ目の源流、そこから地中海河口までが6695kmとなり、ナイル河の河川延長距離の最源流計測地点となる場所は、ブルンジという国にあった。
   
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                     ↑町を警備中のブルンジの兵士

 「カゲラ川」を遡上した探検家カントによって発見された「ルヴィロンザ川」の源流地帯、ブタレ近郊のルカララの沢。
 案内書のとおり、そこには「ナイルの源」と記され小さなピラミッドが建てられているという。
 ただ、ツチ族とフツ族による内戦により命の補償ができないとのことで、今回はいけなかった。(少々心残りではあるが・・・)
 個人的な意見だが、やはり一番源流に相応しい地は、プトレマイオスの時代からの月の山脈(Lunae Montes)、ルェンゾリ山群だったね。

 
 ここで、問題です。
次のうち、アフリカ最貧国(世界一の最貧国)であるブルンジのことを記載してあるのは何番ですか。正解は一つだけ。番号をコメント欄に。

① 首都はドドマである。

② 現在の大統領は、ポール・カガメである。
③ フツ族のツチ族に対する大量虐殺があった。
④ 山岳と起伏の激しい高原のため“アフリカのスイス“と呼ばれている。

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                           ↑これは「ハンガーマップ(Hunger Map)」という世界地図です。
 
 地図の色分けの意味は次の通りです。
 緑色・・・十分に食料がある国(平均寿命の長い先進地域)
 黄色・・・とりあえず食料がある国(それなりの国々)
 赤・・・著しく食料が無い国(平均寿命の短い後進地域が多い。アフリカは、ほぼここです。)
 

 ウガンダは、かつて英国のチャーチル首相が「アフリカの真珠」などと呼んで,その美しさを讃えた国。(この国は良く見ると,アフリカ大陸を縮小したような形をしている。)
 
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                  ↑「アフリカの真珠」ウガンダ地図

 国土面積は本州ほど,人口は2880万人で、アルバート湖、キョウガ湖、ヴィクトリア湖を繋いで、白ナイル川が国の中央を横断する、水と緑に恵まれた白ナイル最上流地帯の国。
 国土の大部分は海抜1200m程度の肥沃で広大な高原地帯で,気候は温暖多雨。
 また、希少動物のマウンテンゴリラが生息していることで有名。
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                 ↑ ブウィンディ公園内のゴリラさん

 この国には現代のナイル河源流の地とされるビクトリア湖畔の「ジンジャの町」と,プトレマイオスの時代の伝説のナイル河源流地とされていた「月の山,ルエンゾリ山群(最高峰はマルゲリータ峰)」がある。
 
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                   ↑ 最高峰のマルゲリータ峰

 そのジンジャはウガンダの首都「カンパラ」から東に80km、ウガンダ第2の都市。
 ジンジャにある白ナイルの源流地へは、町から南西に3kmほど離れた「ナイル源流庭園」から船で行く。
 その道の入口には「ナイル川源流の碑」が設置されていて,碑には「この地点はナイル川がウガンダ,スーダン,エジプトを経て地中海に至る長い旅を始める場所を記念している」と記されている。
 
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                      ↑ ナイル川源流の碑

 船着場から小さな船に乗ってナイル川をヴィクトリア湖方向に10分ほど遡ると小さな島と対岸との間に川底からフツフツと水が湧き出ている場所がある。
 
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                       ↑  ナイルの源流地点

 その場所が、1862年7月28日、探検家スピークによって発見されたナイルの源流である。
 ナイル源流の対岸地点にはスピーク・メモリアルと名付けられた塔が建てられていた。
 
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                     ↑  スピーク・メモリアル
 とうとう,ナイル河の旅は、現代のナイル源流の地まで辿り着いた。
 

 ビクトリア湖は代表的な古代湖であり,100万年の歴史と多くの固有種の生息する『ダーウィンの箱庭』で有名だが,近年ナイルパーチというスズキ亜目アカメ科の全長2mを超す肉食の外来魚が食用として放流定着,湖の固有種が激減している。
 
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                          ↑ ビクトリア湖 

 ナイルパーチによる生態系の破壊であり、生活体系の破壊も、同時に起こった。
 ドキュメンタリー映画『ダーウィンの悪夢』は、ウガンダのビクトリア湖を挟んで対岸の町,タンザニア・ムワンザが舞台。
 この小さな田舎町に,ナイルパーチ捕獲加工企業が進出してから,町はナイルパーチ輸出による「魚景気」に沸き出し,町は一大魚加工・輸出基地に姿を変えた。
 
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                ↑  ナイルパーチ(赤目科のスズキの仲間)

 仕事を求めて,町に様々な人々が集まり始める。
 職を求める男たち。
 魚を空輸する旧ソ連地域出身のパイロットたち,彼らを相手に売春する女たち。
 そういうことで、新たな産業は地域社会に雇用と富をもたらしたが,一方ですさまじい所得格差を招いた。
 職にありつけない男たちの間には暴力が,売春婦たちにはエイズが広がる。エイズで親を失い路上で眠るストリートチルドレンの間にはドラッグがあふれかえる。(ストリートチルドレンの平均寿命は幾つくらいなんだろうね。)   
 
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                  ↑  映画『ダーウィンの悪夢』から

 ムワンザ空港から毎日,魚満載の貨物機が欧州へ向け飛び立ち,戻る時には武器が運ばれてくる。(アフリカ各地の紛争で使われる。)
 歴史の流れの中で繰り返し行われて来たグローバリズムという魔物が,貧しくてもそれなりに幸せだった古き良き世界に襲いかかる。そのシステムに適応しなければ,滅亡が待っている。
 それは良いとか悪いとかを越えた,生存を賭けた生き物としての戦いに見える。(アフリカの現実が,深いところまで見えてきた。)
 

 
 東西の両グレート・リフト・バレーの真ん中に位置する大湖地域は,5万年前から石器時代の人々が狩猟・漁労を営んだ。
 5千年前頃,北からクシ系(アフロ・アジア語族)の人々が牧畜のための草を求めこの地に移動,そのあと,西からバンツー系(ニジェール・コンゴ語族)の人々が農耕文化を携え移動,さらにナイル系集団(ナイル・サハラ語族)も南下した。
 古くから肥沃な土地が広がり,さまざまな人種・民族・文化が入り混じって発展してきたウガンダ一帯に,やがて西からチュChwezi/Cwezi)と呼ばれる半ば伝説的牛牧民が侵入,(ここの先住達を征服し,その影響の元、この地にはブニョロ王国、ブガンダ王国,トロ王国,アンコーレ王国などが次々と起こり,覇を競った。
 
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                      ↑ ブニョロ王国の旗
 
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                       ↑ トロ王国の旗
   
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                        ↑ アンコーレ王国の旗

 これらの王国のうち,当初はブニョロ王国が強大だったが,17世紀半ばを頂点に衰え始め,代わって19世紀に台頭したのがブガンダ王国だった。
 ブガンダ王国は他の国と違って,王族にとらわれず,戦闘で功績のあった者を長官に任命して地方に配置し,長官を通じて地方を直接コントロールする中央集権を進め,官僚機構も整っていた。
 
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              ↑ 首都カンパラの歴代国王4人が葬られている墓所

 やがて19世紀後半に入ると近代化の波がこの地に押し寄せ、ヨーロッパ列強のアフリカ分割が始まり,アラブ商人によってイスラム教がもたらされ,同時にヨーロッパ人宣教師によってキリスト教がもたらされた。
 その後,この地はイギリスの保護領となり,ブガンダ王国は他の王国と同様,ウガンダ内の1王国として存在した。
 ウガンダは諸王国の緩やかな連合の形で,1962年10月,ムテサ2世が象徴的な大統領となり,イギリスから独立した。
 
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               ↑ 独立直後のムテサ2世大統領とオボデ首相

 その後,アミン大佐によりムテサ2世が国外追放となり,諸王国連立時代は終焉となり,オボテ大統領による統一ウガンダの時代となるが,そのオボテもアミン率いる軍隊に国外追放された。
 アミンは大統領となり1971年から1979年まで恐怖政治を敷く。
 

 
 このアミンが今回のスーパーダーティヒーローである。
  (どこか、マウンテンゴリラに似ています。)
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                           ↑ アミン大統領

 彼は猟奇的にして異常な人物で、軍人時代から捕虜の耳をそいだり、炭火で身体をあぶったり、人間に石油をかけて火をつけるたり、拷問と殺人でのし上がってきた人間。
 1971年から1979年までの大統領就任中も残虐な拷問と処刑を繰り返し、20万人とも30万人とも言われる犠牲者を出した。
 アミンの自宅の冷蔵庫には、いくつもの処刑した人物の生首が入っていたという。アミン夫人の元恋人のもの、自分自身の元恋人のもの、愛人のものなど、である。
 
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                     ↑ こんな感じで入っていた・・・

 時々冷蔵庫を開けて、それらの生首を見ては楽しんでいたと言われている。
 また、首を切断した胴体を川に投げ入れ、ワニにエサとして与えたりもしていたようだ。
 アミン自身も人肉を食べたことがあり、「人間の肉は何度か食ったが、塩辛い味だった。」という発言まで残している。(彼なら,アファール人の男性器狩りのように,「食人は我々の文化だ」といいそうですネ。)
 
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                     ↑ 映画「ラストキングオブスコットランド」

 ウガンダにあるマッキンディエ刑務所では、アミンみずからが考案した拷問方法で囚人が処刑された。
 たとえば、丸太にくくりつけられて逆さ吊りにされ、性器の部分には針金まで巻かれ、ほとんど死にかけている囚人を、呼び出された囚人たちがハンマーで撲殺する。(殺さなければ自分が殺されるので、囚人はやってしまう。)
 それらの処刑が終わると囚人たちは別室に移され、何日も食事を与えられない飢餓状態にさせられる。
 そして、何日か後に、わずかばかりの肉のかたまりが部屋の中に投げ込まれる。
 囚人たちは我先にと争って、その肉を手に入れ、夢中でかぶりつく。
 その光景を見ながら看守たちはこう言う。「その肉は何日か前にお前らが殺した仲間の肉だ。」と。  (アミンはこんなことばかりやっていたようだ。)

 アミンはまた元ヘビー級ボクシングのチャンピオンで,アントニオ猪木との異種格闘技戦も行う予定だった。(猪木負けると食べられた?)
 
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                       ↑ 友情出演「アントニオ猪木」

 好き放題のことを行った猟奇的異常者(彼なら、「残酷は、わが国の文化なんだ」というかもね。)は、隣国タンザニアに支援された反政府ゲリラ「ウガンダ民族解放戦線」(アミンに追い出された前大統領のオボテが糸を引いていた。)に追い出され,国外逃亡となった。
 回教徒「アミン」は,リビア経由サウジアラビアへ亡命、2003年そこで死亡した。
 
 そのアミンの亡霊が、ウガンダで育っている。
 少年兵の問題はアフリカ各地で深刻だが、ウガンダはそれらの国のひとつである。
 ウガンダ北部の国境付近で活動するゲリラはLRA(Lord'sResistance Army)、日本語で「神の抵抗軍」と名乗っている。、「神の抵抗軍」の3分の2は17歳以下の子ども兵士で構成されてる。   
 彼らは人民の十字軍と名乗っており、自分たちの活動は全て神の意志であり、人々のためであるといっている。
 
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                  ↑ 記者会見に臨むLRAのコニー司令官

 しかし、現実に彼らの行っていることは、少年の誘拐、性的な目的のための少女の略奪である。(ゲリラにとって少年の誘拐は兵士獲得のための常套手段である。)
 子供は脅しに弱く従順で、大人よりも逃亡することが少なく、心が純粋であればあるほど、洗脳すれば残忍な兵士に変身する。
 両親を殺され、誘拐され、拷問を受け、訓練され、数え切れない苦痛の中で誕生した少年兵は、自らがされたことを平気で行うような兵士に育っていく。
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                         ↑ LRAの兵士

 未来のアミンの誕生である。(兵士の銃は、たぶん、ナイルパーチを運んだ飛行機が持ってきた銃かもしれない。)


 ナイル河の旅は、世界の最短命地帯への旅。その到達点はやはり凄かった。

 平均寿命の総合的バロメーターである、国の平和度、経済事情、福祉状況、衛生状況のどれをとっても最悪の国々が立ちはだかる。
 幸せな状態とはかけ離れた世界が目の前に広がっている。
 「ハンガーマップ(Hunger Map)」は真赤、過酷な世界である。
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 生きるために想像以上の努力を強いられる国が、アフリカの他にも世界には沢山ある。
 こんな場所では、生き抜くことが最重要課題となる。

 
 ここで、問題です。

  LRAの活動が盛んなウガンダの村の子ども達は、毎晩あることをしてLRAの毒牙から自分を守っている。
 それは、次のどれですか?

 1  村の呪術師の家に全員集まり、そこで眠る。LRAは呪術師には手を出さないから。

 2  夜になると、村の学校に集まり、体育館で寝泊りする。監視は、親が交代で行っている。

 3  比較的安全な大都市へ母親と一緒に毎晩家を発ち、何時間も歩く。夜明けには再び自宅へ  歩いて帰る。寝泊りはベランダの下、学校、病院の中庭、バスの停留所など

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 クリスマスの巡礼 ラリベラ(野町和嘉写真集より)
 
 
 青ナイル川(あおナイルがわ、英語:Blue Nile、アラビア語:
النيل الأزرق(an-Nīl al-Āzraq)は、エチオピアのタナ湖に源を発する川で、スーダンのハルツームで白ナイル川と合流する。

 
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                 タナ湖からハルツームまで流れる青ナイル↑
     

 白ナイル川とともに、ナイル川の主流となっている。
 名前の由来は一年の大半において、水が白ナイル川の(灰色に濁った)水よりも透明に見えることからという。
 青ナイルが白ナイルと合流するまでの長さは、1460kmとか1600kmなどと様々な報告例があるが、青ナイル川がエチオピア高原を1500mも削り取り、その渓谷の谷底を流れていることなどのため、現在でも正確な長さが測れないでいる。

 流量は6月から9月の雨季に最大量に達し、その時には(合流後の)ナイル川の水の約3分の2を供給、同じくエチオピア高原から流れ出し、後に合流する支流であるアトバラ川を加えると、ナイル川の水の90%にまで達する。
 
 
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                       雨季の青ナイルの滝↑

 雨期にエチオピア高原から流れ出た堆積物の割合は96%、アスワン・ハイ・ダムが建設されるまで青ナイルは、ナイル川の洪水を引き起こす原因であり、またそれが古代エジプトの繁栄の元となった。

 ヨーロッパ人で初めて青ナイル川をタナ湖からナイルデルタまで探検したのは、スコットランドの探検家ジェームズ・ブルース(1730年-1794年)で、1770年代のことである。
  
 
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                       ジェームズ・ブルース↑

 彼は身長が190cmもあり、ゲーズ語、アラビア語など11か国語を自由に操り、北アフリカ地域を12年以上旅行し、その間に青ナイル川を源流から下ってナイル川を踏破した。
 彼の著書、"Travels to Discover the Source of the Nile"(ナイル川の源流を発見するための旅)にはその旅の行程が詳しく紹介されている。
 

 青ナイルの母国エチオピアは、また不思議の国でもある。

 
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                       青ナイルの夕日↑

 牧師の家に生まれ、牧師となる人生を歩み始めている神戸在住の友人が、中学時代のテニスの練習の合間に、旧約聖書の一節に登場するシバの女王の国のことを話してくれたことがあった。(旧約聖書以外に、シバの女王の国を記載した書物は皆無という。)
 それは邪馬台国の謎にも似たもので、イスラエルのソロモン王とのラブロマンスで有名な、女王に統治されたシバ王国が、実際にはどこに存在したのかというものだった。


 アラビア半島のイエメンのマーリブにあったというのが一番有力な学説(僕の友人もシバ王国マーリブ説である。)だが、その他にもエチオピア正教徒全員が信じている、シバの女王の国はエチオピアのアクスムにあったという学説がある。
 他にも学説はあるが、有力なものはこの二つ。

 今回の旅では、シバ王国に憧れイエメンのマーリブへの旅を計画している牧師の友人の代わりに、同じくシバ王国があった地とされているエチオピアのアクスムに立寄った。

 
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                アクスム王国の墓の跡、今は公園となっている。↑

 シバの女王の国があったとされる国で、彼の代わりに、イエメン産ではなく、エチオピア産の飛び切り上等なモカコーヒーを飲むのが、僕の今回の旅の一つの大きな目的となった。

 ところで、シバ王国があったとされるアクスムには、モーゼの十戒の書かれた石板を納めた「契約の箱(聖櫃)」もあるという。
 
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                  インディ・ジョーンズでの「契約の箱(聖櫃)」↑

 聖櫃への誘いとして必見の、インディ・ジョーンズの冒険のNO.I「レイダーズ、失われた聖櫃(せいひつ)」は、聖櫃の行方を学問的に調査していた考古学者のインディと、聖櫃の計り知れないパワーを利用し世界制覇をもくろむナチスが、エジプトの古都タニスの大掛かりな発掘現場で聖櫃発掘の先陣争いをするというストーリー。(スピルバーグはアクスムに聖櫃があるとはしていない。)
 
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                 タニスでナチスに捕えられたインディとマリオン↑ 

 「聖櫃」はアクスムにあるとしているのは、グラハム・ハンコックとエチオピア正教徒全員である。
 
 
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                       グラハム・ハンコック↑

 グラハム・ハンコックはジャーナリストから出発したイギリス人ベストセラー作家で、彼の成功は、失われた「契約の箱(聖櫃)」の行方と神秘を壮大なスケールで調査した『神の刻印』の出版がきっかけだった。
 1992年にグラハム・ハンコックが著書『神の刻印』で発表したところによると、「聖櫃」は1000年以上前からここエチオピアのマリアシオン聖堂に納められているという。
 
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                         マリアシオン聖堂↑

 「聖櫃」がここにある経緯だが、旧約聖書の列王記によると、紀元前10世紀頃、シバの女王がソロモンの知恵を噂で伝え聞き、自身の抱える悩みを解決するために、遠方のシバ王国からエルサレムのソロモン王の元を訪れた。

 エジプト型中央集権統治と多民族的国家を成立させ、イスラエルに古今未曽有の繁栄をもたらし、いわゆる「ソロモンの栄華=異教的宮廷文化」を享受した黄金時代の出来事である。(7年をかけ建設されたソロモン王の大神殿に、聖櫃は安置されていた。)
 その来訪には大勢の随員を伴い、大量の金や宝石、乳香などの香料、白檀などを寄贈したとされる。
  
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               神に捧げるための香料として用いられた樹脂「乳香」↑

 やがて女王とソロモンは恋に落ち、女王は身籠ってシバ(旧約聖書の記載はないが、ここではシバはエチオピアにあったとする。)に戻った。

 二人の間に生まれたメネリクは十数年後エルサレムを訪問し、エチオピアに戻るときにソロモンから聖櫃を貰い、持ち帰った。
 その後、幾多の紆余曲折を経て、聖櫃はアクスムのマリアシオン聖堂に安置されている。(もちろん、聖櫃の行方には様々な説があり、エジプト王シシャクの略奪によるタニス説(在エジプト)、バビロン捕囚の際にバビロニア人が持って行ったとする説(在イラク)、中世テンプル騎士団が発掘したとする説(在ヨーロッパ)、ナチスから米軍が奪い去ったとする説(在アメリカ)、今もイスラエルにあるとする説(在イスラエル)、など。)
   
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 聖櫃を守るのはたった一人の修道士、彼だけが真実を知っている。 彼はこの仕事のため、数十年風呂に入っていないので、臭かった。↑

 グラハム・ハンコック説は、小説家ゆえの推理から出た想像がかなりあり、ほとんどの学者からは信ぴょう性がないと酷評されているが、エチオピア人の半数以上を占めるエチオピア正教徒の方々には、ハンコック説は聖櫃にも値する価値のあるものとなっている。
 アクスムには聖櫃安置の教会も、シバの女王の浴槽や彼女の王宮もあった。(旧約聖書そのものの世界が、ここには確かに存在していた。)
  
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             シバの女王の浴槽とされている場所ですが、ほんと?・・・
 
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 王宮跡、前世紀にフランスの考古学チームが発見。なぜか大々的に発表されていない。何か理由が・・・・



 エチオピア高原の北東部標高2,630mの地に、一枚岩を掘り下げて築かれた11もの教会が残る、人口約15,000人程の村がある。
  
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                  ラリベラの村、ここに都がかってあった・・・↑

 第2のエルサルムとして建設されたラリベラの都である。
 ソロモン王とシバの女王との間に生まれたメネリク1世(紀元前1000年頃)によって創設されたといわれるアクスム王朝は、7世紀ごろから勢力を伸ばしたイスラム軍のため、10世紀までには領土のすべてを失った。
 1130年代に、新しいキリスト教を信奉するザグエ家が興り、ロハ(現在のラリベラ)をその首都とし、ザグエ王朝を築いた。
  
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                  ラリベラの民家、王朝の末裔たちの住居・・↑

 ザグエ王朝7代目のラリベラ王は、エルサレムへの道がイスラム教徒に占領され、巡礼が困難になったため、この地にエルサレムを模し、岩をくりぬいて第2のエルサレムを建設した。これが現在世界遺産となっている、ラリベラの岩石教会群である。
 
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    有名な十字架型の教会、セント・ギョルギス、テンプル騎士団が創ったという説も・・・・↑
 
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                    中はこんな・・凄い、圧倒された・・・・ 

 

 第2のエルサレムとして築かれたラリベラの聖地には、聖書に描かれたさまざまな場面が再現されている。
 キリストが誕生したベツレヘムの馬小屋、キリストが洗礼を受けたことを示す岩の十字架が河岸に建つヨルダン川、キリストが捕らえられ昇天したとされるオリーブ山やゴルゴダの丘など。

 実際のヨルダン川だが、乾期には水はほとんどなく、巡礼者やそのまま居ついた浮浪者の排泄物が辺り構わずうず高く堆積しており、異様な臭気を撒き散らせていた。
 聖地ではあるが、巡礼者から身を落としこの地に住みついた浮浪者や乞食の群れがどこの教会の近くにも居り、キリストの加護がこの人々にどのような形で届いているのか不思議に思えた。
 
 
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            一見乞食のようだが、巡礼の人々・・・ほとんど変わりはない。↑ 

 しかし、ここでのキリスト教は、神の名によって先住民とその文化を駆逐して世界制覇を成し遂げたヨーロッパのキリスト教とは明確に異なる。

 「人間はちっぽけな存在で神の計画に参加しようなどというのは傲慢、人間は何もしないで教会が定めた祭日を守ってただ神を賛美していればいい。祭日は1年に360日あるので、結果として、真面目な教徒は月に10日くらい働き、不真面目な教徒が月に20日くらい働くということになる。」これが、エチオピア正教の本質であり、物質的な貧しさの源泉となっている。

 ただ偉大な聖櫃の力は、イスラムやヨーロッパ列強の侵略を許さず、エチオピアの民のために、物質的には貧しいが、考えようでは豊かな社会を永遠に与え続けて来たようにも思える。(子ども達の表情は底抜けに明るく、シバの女王の末裔としての誇りがあった。)
  
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 ここでシバの女王からの問題です。

 シバの女王の末裔達の国「エチオピア」の記述で間違っているものは何番ですか。番号でお答えください。(難しいかな?)

① インジェラというクレープ状のものが主食である。
② モカ・マタリという有名コーヒーブランドがある。
③ アベベ・ビキラというマラソンランナーの祖国である。
④ ハイレ・セラシエ皇帝が長い間支配していた国である。


 「シバの女王からの問題、わかったかな?ソロモン王へはもっと難問が出てましたね。一番やさしい第1問でこんなのだよ。「地から湧くのでも天から降るのでもない水は何でしょう?」」
 ついでに、ソロモン王への謎もわかる方は解いてね。

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                              牛と共生生活を送るするディンカ族 ↑(問題は最後ダヨ、)

 スーダンは現代アフリカの縮図であり、とりわけ南スーダンはその典型と言える。
 それは、誰もが連想する貧困、飢餓、感染症による病死、少数民族の間で今も続く原始的な牧畜や農耕生活の風習、アニミズムと呼ばれる原始宗教による日々の暮らしぶりという意味であるが。
 貧しくはあるが、それぞれの部族の風習に基づいて生活してきたこのアフリカの典型的な地域に、二つの巨大な波が押し寄せた。

 最初の波はイスラム化という波
7世紀初頭に起こったイスラム教は、アフリカを徐々にイスラム社会化して行き、15世紀には、ほぼアフリカの各地に行き渡った。
  
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 イスラム社会になると断食もある。このような三日月の頃から始め、1ケ月もの間、太陽が沈むまで飲食出来ない。暑いとこではなお、厳しいね ↑

 現在アフリカの総人口の約40%はムスリム(イスラム教徒)である。エジプト、リビア、アルジェリア、モロッコなど北アフリカは90%以上、スーダンは75%がムスリムである。

 次の波はヨーローッパ近代文明の到来ということになるが、実際文明という名でこの地域にもたらされたものは、奴隷狩りだった。
 16世紀から18世紀の300年間の間にアフリカ大陸から狩り集められた奴隷の数は1500万人に及ぶ。
   
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                                 スーダンの黒人はこんなふうに連れ去られた↑

 奴隷制度は、19世紀以降廃止されて行くが、奥地の南スーダンでは野放し状態で、その後もアラブ系奴隷商人達が入り込み、まるで農作物や畜産物の収穫でもするような感覚で、黒人部族のディンカ族などをハルツームに連れて行き、家畜の取引と同じように売買していた。
 その後1898年のオムドゥルマンの戦いを経てイギリスの植民地となった後も、北部アラブ系の南部黒人系に対する支配や収奪は続いた。1956年にイギリスから独立すると南部住民のアラブ系支配への不満が爆発し、スーダンの南北戦争が始まるのである。

 
 僕はアフリカの旅の中で、特有の生活様式を色濃く残している、出会っておきたい少数民族を10民族くらいノミネートした。
 その一つであるヌビア民族には、エジプトのアスワンで出会った。
 ここでは、高名な二人の写真家の写真により、少数民族を二組紹介したい。
 まず、最悪の疫病地帯サッドで生活するディンカ族野町和嘉氏と一緒に紹介する。
  
 
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                                     ↑  野町和嘉、彼も探検家列伝に加えたヨ

 野町氏は高知県出身の高名な写真家で、一貫したテーマは、過酷な風土のもとでの人びとの強靭な生きざまへの憧憬であった。

      
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                                           ↑  裸で暮らすディンカ族
            
 ディンカ族、スーダン南部から一部エチオピア東部に住む。ヌエル族やマンダレー族と同様、「牛と共に生きる民」として知られている。
 ただ、スーダンの南北戦争の影響で異文化が流入し、本来の伝統的な生活は崩壊しつつある。
 白ナイルに沿った湿地帯サッドの外側には、現地語でトイチと呼ばれる平坦な平原が果てしなく広がっていた。
 彼等牧畜民は、乾季の間はトイチでキャンプ生活する。トイチは乾期には乾燥して埃っぽいが、雨期には広大な湿地へと変わる。そのために家畜と共に、標高の高い彼等の村へ移動する。
 
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                                                     キャンプ風景  ↑

 彼らの土地は低湿地のため、暑さに加え、黄熱病やマラリア、アメーバ赤痢、などの風土病が常時発生・蔓延している。外から来た人間なら、簡単にあの世行きとなる世界だ。
 死に至る感染症を媒介する大量の蚊から、家畜と彼ら自身を守るために、一日中牛糞を燃やす。夕方になると、灰の傍で横になり、交互に牛糞の灰を体に擦り付ける。こうすることで、蚊が寄り付かなくなるのだという。(もちろん、牛にも塗ってやる。)
 灰を塗りたくった彼らの漆黒の裸体は白く見えた。
 キャンプでは村人全員に役割分担がなされ、家畜の世話は子供、乳絞りは女、男は外的から家畜を守るなどの役目を果たしている。
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                             牛の膣に息を吹き込み、乳の出を良くしている少年 ↑ 

 牛のためなら命をも惜しまないといわれるほど生活全体が牛に依存しており、戦闘的なヌエル族などは牛を奪うために、ディンカ族を襲撃することもあるという。

 ヌエル族の世界は結婚という制度でもユニークだ。
      
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                                                  ヌエル族のこども達 ↑

 結婚して子供が産めないと判断されたヌエルの女はそれからの人生を男として生きていくという変わった風習がある。
 別に性転換手術をするわけではなく男と同じ仕事をしはじめるのだ。
そうして牛三頭を買って女に贈る。これはヌエル族における求婚の儀式である。
 ヌエルの結婚で重要なのは、共に住むことだけではなく子孫を絶やさないということ。
 女と女が結婚をしても子供ができない。
  そこで、夫である女の親族の男が妻である女と子づくりをするのだ。(こうすれば、血が絶えないが、親族の夫の出番は子づくりの時だけ?)

 また、ヌエルのような風習程度の、常人の度肝を抜く現実も、この国には起こるのだ。

 スーダンの上ナイル州のマラカル市に住むアリフィさんは、2/13の深夜大きな物音を耳にし、外に出たところ近所のトンベさんがヤギと一緒にいるところを発見した。
  
 
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                                 ローズ(ヤギの名)さん、なんとなく魅力的?↑

 彼が「そこで何をしている」と尋ねるとトンベさんはヤギから離れた。
 明らかにヤギと「していた」のだ。
 アリフィさんはトンベさんをつかまえて縛り上げ、長老たちを呼びこの事件への対処を求めた。
 長老会議はトンベさんを警察につきだすべきでなく、ヤギを妻としているわけだから持参金を払わせるべきだと決定、アリフィさんに対し1万5千スーダンディナール(約5,000円)支払うようトンベさんに命じたという。
 アリフィさんはただで、トンベさんにヤギをくれてやったとのこと。
 しかし幸せ?な生活は長くは続かなかった。
 妻のローズ(ヤギの名)さんは結婚後男児を出産したが、人間の子供ではなかったという。(どうもローズさんは他のヤギと浮気をしていたらしい。)
 その後、ローズさんはジューバの路上で路上のゴミを食べていたところ、ビニール袋をのどに詰まらせて死んだという。(いかにも南スーダンらしい?話題です。もちろん実話!!)
  
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                ローズ(ヤギの名)さん、亡くなりました↑

 
 そして、アフリカの魂とも言える風俗を残しているヌバ族の登場である。
 白ナイルより250kmほど西に位置する北海道程の大きさの山岳地帯、ヌバマウンテン、ここに50万足らずのヌバ族が暮らしている。
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                     灰を塗り身体を保護するヌバ  ↑

 いったいいつ頃から彼等がここに住み着いたのか定かではないが、50種類もの違った言語があり、山一つ越えても言葉が通じないことから、もともとナイル河畔に住んでいた様々な部族が、ナイルを遡行してきた奴隷商人達から逃れるため、ここへ落ちのびたのだというのが定説となっている。
 つい数十年前まで素裸で暮らしていたヌバの人達、その膚を飾るのはナイフで付けた瘢痕装飾。
 それは、衣服を知らない野生のアフリカの装飾法。
 
 
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                        瘢痕装飾をした青年  ↑

 写真集「ヌバ」をみたことがあるだろうか。
 レニ・リーフエンシユタールというヒトラーの信奉者だったおばあさんが撮ったもの。
 二組目の少数民族ヌバ族はヒトラー統治下でも活躍したレニーおばあさんに紹介いただこう。
 
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                   レニ・リーフエンシユタールとヒトラー ↑

 彼女は1962年(60歳)から毎年のように彼らに会いに行き、長いときには7ヶ月も生活を共にした。
 
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                        畑を耕すヌバの人々  ↑

 そして完成したヌバ族の隆々たる肉体、美無駄のない肉体の完全な女性美、美しいペインティング、そして独特の風習や記録を収めた写真集「ヌバ」は世界的な高い評価を得た。
 
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                          隆々たる肉体美↑
  
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                         無駄の無い女性美 ↑   
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                         美しいペインティング↑
 
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                       最強の男たちのレスリング↑

 そして98歳になったリーフェンシュタールは再び、ヌバの地を訪れる。だが、時間の流れはあまりに残酷で、そこにはイスラム教へ改宗され、伝統が消え、洋服を着たヌバ族しかいなかった。
 体力、知力、精神力、生命力、美貌、そして運命と対峙する力…。2003年9月、102歳という天寿を全うしたレニ・リーフェンシュタールは、その全てを持っており、20世紀最強の女性とまで言われていた・・・。

 
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 レニ・リーフェンシュタール60歳の頃の写真、旦那は40歳も年下だったとか(魅力的な女性でははありますね) ↑

 
 野町氏、レニ・リーフェンシュタール氏、日本とドイツの高名な写真家の登場で、ナイル河の旅も盛り上がりました。

 さて、ここで、問題です。

 アフリカは恐ろしい感染症の大発祥地です。
 それでは、次の感染症の中でアフリカを発祥地としない感染症又はウィルスはどれでしょう。
 番号で答えてくださいね。

 ① エボラ出血熱
 ② 西ナイルウィルス
 ③ ラッサウィルス
 ④ SARS

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                         青ナイルのほとりで

 ナイル河の旅、アブシンベルを南下すれば、そこはスーダンの国となる。
 「スーダン」、アラビア語で「黒い人」を意味する。もともとスーダンは西アフリカから東アフリカに至るまでのサハラ砂漠以南の広い地域を指す地域名称。
 現在のスーダンは、歴史的には東スーダンと呼ばれた地域。

 人口の構成は
① 北部のアラブ系イスラム教徒 75%
② 西部ダルフール地方のアフリカ系(フール人等)イスラム教徒 17%
③ 南部のアフリカ系(ディンカ人)キリスト教徒 8% 
 となる。

 人種的にはスーダンのアラブ系イスラム教徒はネグロイド(黒人)であり、②③の人々と変わりはない。(アラブ人とは、現在はアラビア語を話す人たちのことを言う。)
 スーダンはアフリカの縮図のような国、ここには、貧困や飢餓が日常的にあり、僕等の普段のイメージに似たアフリカの世界が広がる。

 南部にはサッド、地球上で最悪の疫病地帯が広がる。
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                          疫病地帯サッド  ↑

 西部にはダルフール、アラブ人による、アフリカ系(フール人等)民族に対する集団殺戮、その結果としての大量の難民の間に広がる貧困と飢餓。
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                    ダルフールから隣国へ逃げた母子 ↑

 北部には灼熱地獄のヌビア砂漠、そこには、砂に埋もれた幻の古代黒人王国の廃墟が、永遠に停止した時間の中で、残されたまま存在する。
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                         メロエのピラミッド群 ↑

 
 僕は、この国の首都ハルツームに宿を得た。
 ここを拠点として、東西南北のスーダンに出会う旅が始まる。
 ハルツームはアラビア語でal-Khart??
لخرطوم 、意味は象の鼻となる。
 ウガンダから流れる白ナイルとエチオピアから流れる青ナイルの合流地点の南岸にある。

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                     白ナイルと青ナイルの合流地点 ↑

 1820年にエジプトのムハンマド・アリー朝による支配の拠点として築かれ、ナイル航路の拠点となり、奴隷貿易の中継地として栄えた。
 人口規模は、近隣の北ハルツームとオムドゥルマンとで都市圏を形成しており、あわせて400万以上の居住者がいる。
 ハルツームは行政や経済の中心地、オムドゥルマンはスーダンの伝統や文化が残る地域。
 やはりオムドゥルマンは歴史的にも興味があり、早速出かけた。
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                 赤い地域がオムドゥルマン、ハルツームは右下↑

 この街は1885年、イギリスのスーダン植民地化政策に反対するスーダン独立運動の指導者マフディ(本名ムハンマド・アハマド(Muhammad Ahmad 1844-1885、マフディとは正しい道への導者の意味)が都として建設した街。
 1898年のオムドゥルマンの戦いで、街は戦場となり、スーダンの熱狂的なイスラム教徒(神秘主義的修道僧)であるダルウィーシュ軍は破れ、イギリスの殖民地となった。
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                 オムドゥルマンの街、ナイル河合流点が見える ↑

 スーダン最大のスークや、ラクダ市、マフディの墓など、ここには植民地とされても挫けなかった、スーダン人の不屈の魂が宿っているようだった。
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                    スーク(アラビア語で市場のこと) ↑

 
 宿で一晩眠り、翌日、僕は北部のヌビア砂漠に向った。
 このスーダンの北部、ヌビア地方に、紀元前9世紀から紀元後4世紀にかけて、クシュ王国といわれた黒人王国があった。(アイーダの末裔の国、この時代は、黒人がアラブ人を支配した。)
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                  ヌビア砂漠に広がるクシュ王国の遺跡地図  ↑


 紀元前8世紀にナイル下流に進出して一時エジプト王朝を滅ぼし、最盛期にはアフリカ大陸の4分の1にも及ぶ強大な王国を築いた。
 当時の都、ジュベル・バルカルの遺跡がスーダン北部のナパタ地方に残されている。
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                      ジュベル・バルカルのピラミッド ↑

 その後、紀元前6世紀に南下してきたアッシリアの勢力に破れたクシュ王国は南部のメロエへ都を移す。(長距離バスに乗せてもらって、ここまでは来た。政府の許可証がいるし、写真を撮るのにも一苦労、独裁軍事政権の国は大変。)
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                       ロイヤル・シティ(王宮)跡 ↑


 クシュ王国は紀元後4世紀にエチオピアのアクスム王国に滅ぼされるまで繁栄し、王国が残したロイヤル・シティ(王宮)跡やピラミッドなどの遺跡群は2003年にスーダンで初めての世界遺産に登録された。(炎天下での気温は40度を軽く突破、気分は、いい湯だなという訳にはいかず、じっと我慢するのみだった。)
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                        北ピラミッド遠景 ↑

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                         北ピラミッド近景 ↑

 
 西へ行くと、そこはダルフール、そして、ダルフール紛争である。
 ダルフール(アラビア語でフール人の国の意味)は幾つかの民族が居住している地域で、大別するとフール人、マサリート、ザガワなどの非アラブ系の諸民族と、バッガーラと呼ばれる13世紀以降にこの地域に移住してきたアラブ系とで構成されている。いずれもムスリムであり、フール人とマサリートは農耕を、ザガワとバッガーラは牧畜を営んでいる。 
 
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 非アラブ系のフール人等とアラブ系のバッガーラの間には、長年の緊張関係があった。
 ダルフール紛争は、スーダン政府に支援された「ジャンジャウィード」と呼ばれるアラブ系民兵と、非アラブ系フール人達との間に起きている民族紛争である。
 農耕を営む民と牧畜を営む民の間での水を廻る争いに端を発し、この地に埋もれている豊富な石油資源の利権争いなどが絡み、ダルフール紛争は収拾の見込みも立たない、泥沼の様相となって現在も続いている。

 内戦の激化により、ジャンジャウィードによるフール人達に対する殺人、レイプ、略奪が大規模に行なわれ、2003年2月の衝突以降、2006年2月時点での概算で18万人が既に殺害され、その結果、約70万人が国内避難民となり、約20万人が難民となって隣国チャドに逃れた。
 (学校での集団レイプの事例では、女生徒全員を鎖につなぎ、強姦したあと、全員を焼き殺したという事例が報告されている。)
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                          難民の仮住まい ↑


 今後大規模な国際的支援がなければ、2年以内にこの地域の3分の1にあたる約200万人が、飢餓と餓死の危機にさらされるだろうと予測されている。
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                     病気の赤ん坊に薬を飲ませる母親 ↑



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世紀初頭のアフリカ、そこでの最悪のヒーローは、やはりバシール=スーダン大統領であろう。(中国の援助で石油開発に熱心)
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             バシール=スーダン大統領(左)と胡錦涛・国家主席(中国)↑
  
 この悪魔が乗り移ったようなスーダンの大統領は、1989年に軍事政権を成立させると人種差別を徹底させ、キリスト教や伝統宗教が普及していた南部にイスラム法を強要、南部の村を空爆し、女性や子供を奴隷化する目的で、スーダン国内で南北戦争を引き起こした。(この内戦で、約100万人強の難民が発生し、約200万人が飢餓や戦闘の犠牲となった。)
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                         難民キャンプの少女 ↑


 そして、21世紀にはいると、西部のダルフール紛争の勃発である。スーダン大統領はジャンジャウィードを使い、アフリカ系(フール人等)イスラム教徒を抹殺し出した。
 僕には、75%の多数派アラブ系イスラム教徒が、25%の少数派異民族・異教徒を征服し、スーダンを名実ともにアラブ人の国にしようとしているようにしか見えない。
 現在のスーダンは非常に怖い国である。(僕はこの旅の間に、小便やウンコが出なくなったことが何回かあった。暑い国なのに、冷や汗はしょっちゅうだった。)


みなさん、下記の順位がなんだかわかりますか?

位. バシール大統領(スーダン)
位. 金正日総書記(北朝鮮)
位. セイエド・アリー・ハメネイ(イラン)
位. 胡錦涛・国家主席(中国)
位. アブドラ国王(サウジアラビア)

 これは、ワシントン・ポスト週末付属誌、「パレイド」が発表した2007年の“最悪独裁者ベストファイブである。
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                    友情出演 金正日総書記(北朝鮮)↑
 
 あの超独裁国家北朝鮮の金正日総書記を押さえて、バシール大統領(スーダン)は2005年度から3年連続、堂々の1位となった。
 
 そして、問題です。

 あなたが選ぶとしたら、世界最悪独裁者は誰ですか?(これは、ボーナス問題ですので、回答があれば、正解としてハートマークを5つ差し上げます。選んだ理由も書いてね

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