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カテゴリ: 越前と若狭の旅

敦賀にいるが、ここに来ると渤海(698年〜926年)のことを思い出す。
渤海は、建国以後唐や新羅の勢力を牽制する目的で日本への遣使を行っていて、この渤海の日本への海上交通は「日本道」とよばれていた。
この日本道とほぼ同じ海上の道を利用し、敦賀港は1902年から1941年にかけて、日本とヨーロッパとの交通の拠点として賑わった。

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日本とヨーロッパを繋いだのは「欧亜国際連絡列車」で、敦賀-ウラジオストク間は航路で、ウラジオストク-ヤロスラヴリ間はシベリア鉄道を利用した。

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敦賀に「人道の港 敦賀ムゼウム」という資料館があるので、そこに立ち寄った。
古くから大陸への玄関口として栄えた敦賀港は、1920年にポーランド孤児、1940年にはユダヤ人難民が上陸した日本で唯一の港である。
敦賀ムゼウムは、ポーランド孤児の様子や各地での暮らし、杉原千畝の命のビザで上陸したユダヤ人難民と敦賀市民との心温まる交流や杉原サバイバーからのメッセージなどを展示した資料館である。
上陸したポーランド孤児の展示をまず見た。

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1920年7月23日、ロシアのウラジオストクから陸軍の輸送船「筑前丸」が敦賀港に入港、乗船していたのは粗末な服を着て、哀れなほどやせ細った青白い顔の子供たちだった。
彼らは、動乱のシベリアで家族を失ったポーランド孤児で、子供たちは町内の小学校で疲れた体を休め、そして昼食をとった後、列車で東京へ向かった。
その後も上陸は続き、計5回にわたり375名の孤児たちが救われたことなどが展示されていた。
ユダヤ人難民の話は更に過酷で、かなり重い気持ちで、事の一部始終を読んでみた。
ナチスに追われ、ヨーロッパには安住できる所がどこにもなくなって、リトアニアの杉原領事代理が発行した日本国無許可の「命のビザ」を持って、シベリア鉄道に乗って命がけで逃げてきたユダヤ人難民の話である。
ヨーロッパへの憧れの「欧亜国際連絡列車」の旅が、日本への命がけの旅になったのである。

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過酷な状況で上陸するユダヤ人難民と敦賀市民との間には心温まるエピソードが残っている。
ひとりの少年が難民に果物の入った籠を持って近づき無償で置いていったり、港に近い銭湯の主人は彼らの姿を見るに見かねて浴場を無料で開放した。
駅前の時計店の主人は、彼らが空の財布を見せながら空腹を訴えたため気の毒に思い、彼らの所持していた時計や指輪などを買い取り、さらには台所にある食べ物を彼らに渡したという。
いろいろ考えながら、「欧亜国際連絡列車」関連の資料が展示してある「敦賀鉄道資料館」に向かった。

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この施設は、シベリア鉄道経由でヨーロッパ諸国と繋がる「欧亜国際連絡列車」の発着駅として賑わった時代の敦賀港駅駅舎を再現したものである。

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ここには市民から寄せられた資料や模型やパネルなどが展示されていて、敦賀の鉄道や港についての歴史が学べる施設となっていた。
「越前と若狭の旅」は最初から最後までいろいろ考えさせられる旅となった。

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敦賀鉄道資料館の前に立っていると、日本海を越えてヨーロッパがすぐ近くにあるような気になってくる。
旅心を満タンにしてここから旅立っていった多くの旅人の声が聞こえてくるようである。
渤海人が旅した道は時代を超えて「欧亜国際連絡列車」に引き継がれ、そして現在の環日本海の諸国の国際交流の道へと繋がっていくようである。
雄大な風景が見えてくるこの場所で、「越前と若狭の旅」を終わりとする。

昼食を食べたあと、「三方五湖レインボウライン」を降り、1時間程かけて敦賀まで走り、敦賀の気比神宮に午後2時ころに到着した。

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敦賀の気比というと、高校野球の強豪校である敦賀気比を思い出すが、この神宮は野球の神様を祀っている神社ではない。
氣比神宮は、福井県の中央部に位置する敦賀市市街地の北東部に鎮座する越前国一宮である。
敦賀は天然の良港を有するとともに、北陸道諸国から畿内への入り口であり、対外的にも朝鮮半島や中国東北部への玄関口にあたる要衝であり、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視された神社であった。
「古事記」「日本書紀」では早い時期に神宮についての記事が見えるが、特に仲哀天皇・神功皇后・応神天皇との関連が深く、古代史において重要な役割を担っていた。

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ここの境内に、おくのほそ道で詠んだ句を台座に刻んだ芭蕉像が建っている。
句は「月清し 遊行の持てる 砂の上」である。
敦賀気比神宮の参道を遊行が整備したという話を旅籠の主人から聞いて、感銘を受け詠んだ句といわれていて、句の意味だが「清らかな月が出ている。遊行二世上人が砂を運んで整備してくださった参道の上から望むからこそ月がなおさら清らかに見えるのであろう。」というようになる。

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おくのほそ道の旅で、芭蕉は元禄2年旧暦8月14日(現在の9月終わり頃)の夕暮れ、敦賀の港に着き宿をとり、その夜の月に感動し氣比神宮に夜の参拝に出かけ、遊行二世上人が砂を運んで整備してくださった参道の白砂とそれを照らす月の美しさに打たれ、この句が成立した。
気比神宮はさらっと見て、次に金崎宮に向かった。
金崎宮は当地にあった金ヶ崎城址の麓にあり、後醍醐天皇の皇子である恒良親王と尊良親王を祭神としている神社である。

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恋愛成就の神様として有名で、若い女性二人が僕の前に神社に入って、たぶん恋愛関係の願い事を一生懸命に祈っていた。

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これから僕は金ケ崎古戦場跡に向かう。
この金崎宮の祭神である恒良親王と尊良親王は、足利尊氏の入京により北陸落ちした新田義貞や氣比神宮の大宮司に奉じられて金ヶ崎城に入ったが、足利勢との戦いにより敗死した。

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この階段を上がると、尊良親王の墓所見込み地である。

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この階段を上がるとかなりな広さの平坦地があり、その中央に記念植樹がされていて、木の横に白い杭が建てられていて、「金崎軍本陣跡地記念植樹」と書かれていた。
ここで尊良親王が自刃して果てたと推定されていて、しばらく居ると気分が悪くなり、古戦場跡地まであと3分で行ける予定だったが、ここで引き返すことにした。

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金崎宮へ引き返す途中で見晴らしのいい場所があり、そこから赤レンガ倉庫を中心に敦賀市内をしばらく眺めていた。
明日の朝はもう新潟へ帰る船に乗船、この「越前と若狭の旅」も次回で終わりである

これから絶景で有名な「三方五湖レインボウライン」に向かう。

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ラインは全長11.24kmあり、標高400mの梅丈岳を縫うように走り、ライン眼下から五湖の絶景が見渡せる有料道路である。
ゲートで普通車1000円の料金を払って「三方五湖レインボウライン」に乗り入れた。

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しばらくすると、眼下に唯一の海水湖である日向湖が見えてきた。
レインボウラインに入って20分程走って山頂公園駐車場に到着、ここからケーブルカーに乗り込んで梅丈岳山頂に上がっていく。(リフトかケーブルカーが選べ、往復800円である。)

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ケーブルカーから下を見下ろすと、こんな雄大な景色が広がっている。
2分程乗って、梅丈岳山頂に到着した。
山頂は賑やかなところで、歌手の五木ひろしが福井県の出身であることにちなみ、ここに「五木の園」という記念碑が建てられていた。

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石碑もあり、そこには彼の代表作である「ふるさと」の歌詞が刻まれていて、その下にあるレコード盤に触れると、ふるさとの唄が流れてきた。

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山頂公園は恋人の聖地として設定されていて、ここは数多くのカップルが訪れる恋のパワースポットとなっているという。

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これは誓いの鍵で、カップルで恋の願いを込めて鍵をかけていく。
鍵をかけたカップルの内のどのくらいの割合の方が結婚に至るかは不明である。

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この鐘は中国古鐘研究会から寄贈された「友好の鐘(縄文の響き 幸福の鐘)」で、紀元前5世紀にすでに楽器が演奏されていたことを示す歴史的発見物だという。
大変賑やかな山頂公園に20分程いて、復路はリフトに乗って山頂公園駐車場に下った。

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帰りのリフトからの景色はなかなかのもので、2分間の旅はとても幸せな時間となった。
駐車場に着くと午後1時近くになっていたので、駐車場内の頂上レストハウスで昼食とした。

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昼食は古代米を使った梅丈定食で料金は880円、美味しくいただいた。

三方五湖は、福井県三方郡美浜町と同県三方上中郡若狭町に跨って位置する5つの湖の総称で国指定の名勝となっていて若狭湾国定公園に属している。

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三方五湖を一覧表にすると、このような表となる。
この五湖のうち、「水月湖年縞」で有名な水月湖は前から知っていた湖である。
この水月湖年縞の展示資料がある「若狭三方縄文博物館DOKIDOKI館」へ立ち寄った。

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面白い形の建物で初代館長は梅原猛、館のメッセージは以下のとおりである。
「縄文文化は日本文化の基礎であり、人類の還るべき文化が縄文にあるのではないかと考えています。森が破壊され、自然環境が破壊され、人類の未来が危惧される今日、縄文のもつ共生と循環の世界観が改めて認識される必要があるのではないでしょうか。若狭三方縄文博物館は、地球を破壊しつつある現代文明へのメッセージとして縄文の光を世界へ届けたいと思っています。」

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非常に興味を持って館内に入ったが、「水月湖年縞」のみ紹介する。
「水月湖年縞」を知ったのは環境考古学者の安田喜憲の著書の中でだと思うが、詳細は忘れてしまった。
5つの中で最も大きな湖「水月湖」の底には、何層にも重なったシマ(縞)模様の堆積物が厚さ73m以上もたまっている。(奇跡の湖と呼ばれている。)

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そのシマ模様は白い層と黒い層が交互に重なってできており、一対で1年分を示していて、この様子を「年縞」(木にたとえると年輪)といい、水月湖の年縞は実に7万年もの長い期間にわたり、大きくかき乱されることもなく安定して積み重なり、今日まで保存されてきた。
なぜ縞模様になるかというと、水月湖の湖底には春から秋にかけては土やプランクトンの死がいなどの有機物、晩秋から冬にかけては湖底から析出した鉄分や大陸の黄砂などの鉱物質が堆積する。

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有機物を多く含む層は暗い色に、鉱物質を多く含む層は明るい色となり、色の暗い層と明るい層の一対が1年をかけ縞模様となっていく。
水月湖の年縞堆積物は、1年で平均0.7mmの薄さで7万年に渡って堆積してできた。
水月湖の年縞調査が始まったのは1991年のことで、安田喜憲をリーダーとして1993年には約75mの堆積物を採取することに成功した。
僕は探検家関野吉晴の「グレートジャーニー」の大ファンであり、彼が旅の途中でレバノンに立ち寄った際に、レバノン杉の盛衰の歴史を調査している安田喜憲と出会って、地球環境の問題で意見が噛み合ったことを覚えている。
地球環境問題については、関野吉晴も安田喜憲も同じような考え方で対応しているのが嬉しかったことを記憶している。
この安田喜憲の著書「長江文明の謎」の中で読んだ、こんな話を思い浮かべた。
長江文明は今から6千3百年前に誕生したという。
地球の寒冷化によるこの地域の乾燥化の中で、長江流域の人々は城塞を築き、ため池を作った。
稲作を守るために水のコントロールを始めたのである。
都市型集落の成立であり、文明の誕生と推測される。
長江文明を作り稲作文明を築いた苗族やその末裔の人々は、長江下流地に越の国(呉越同舟の故事で有名な越のことです。)をつくった。

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越の国の一部の人々は、稲作文化を携え日本に渡り、越という地域に住んだという。(赤色地域)
つまりは古事記に高志(越)の国と記述されている地域であり、この地域は今、越前・越中・越後という地名として残っている。
ここは若狭の国であるが、僕の旅の意識としては、今回の旅は越前街道の旅であり、むろん越(高志)の国を潜在的に意識しての旅の継続となっている。
ここの女性館長に確かめたが、今でも安田喜憲はたまにここに来館することがあるという。
 

小浜公園展望台を降りて、黄星印のホテルアーバンポート前を通り抜け、南川と北川の中洲にある黄矢印の小浜城跡を目指した。

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南川を渡り北川も渡ってからようやく行き過ぎたことに気付き、北川に架かる橋を渡って小浜城跡へ歩いた。

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石垣の上に今盛りした森があるが、あの辺りが小浜城跡である。

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小浜城跡は、今は小浜藩祖酒井忠勝をまつる小浜神社の境内地となっていて、小浜神社の鳥居をくぐって城跡に入った。

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境内を抜けて、さっそく小浜城址天守跡に上ってみた。

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しかし小浜城址天守跡には今は何も無く、一つの立て札がそこに建てられていて、小浜城の経緯を簡略に説明していた。
その要点をここで転載する。
小浜城は、関が原合戦の戦功によって若狭の領主となった京極高次(浅井三姉妹の次女である初の夫で、初も夫と共にこの地に住んだ。)が1601年に、北川、南川を天然の濠とし、小浜の海を背に難攻不落の水城として築城した。(別名を雲浜城とも呼ばれる。)
しかし城を未完成のままにして京極氏は松江藩へ加増転封となり、代わって入国した老中酒井忠勝が、三重三階の天守を持つ小浜城を完成させた。

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以来酒井家14代238年間の居城となったが、廃藩置県に際して城内に小浜県庁が設置され、その後間もなく二の丸櫓から出火し、旧城大部分を焼失して今は城郭の石垣を残すのみとなった。
城地総面積は62.492平方メートル、本丸面積10.347平方メートルである。
小浜城址跡を発って、一路三方五湖方面へ車を走らせていく。

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 この辺りは若狭湾国定公園の中で、海はどこを見ても真っ青で、どこまでも透きとおっている。
 景色に見とれて運転を誤りそうであるが、ここいらの景色は「ポケモンゴー」並みである。

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ここは小浜城址跡から1時間程走った辺りで、もうすぐ三方五湖の入口である。

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